あの夕暮れが、あの温度が、あの言葉が。べたりと頭に纏わりついて消えない。周りの声が届かない。 あの日のあの声だけが、ずっと俺の心臓に触れて、ぎゅっと締めつけている。 「剣城!」と響くそれよりも高く幼い声がして、はっ、と我に返る。 青い空、じりじりと照りつける太陽。夏が近づいている。じわりと滲む汗を拭って、意識を集中させる。今は部活の最中だ。何も考えずボールを蹴ればいい。 「どうしたの?何かぼーっとしてたけど…熱でもある?」 心配そうに眉を下げる天馬に何でもない、大丈夫だ、と返せば、あまり納得していないようだがそっか、と笑った。 そして狩屋のところへ向かう背中を見ていると、ポジションの関係で狩屋の近くに居るあの人と目が合った。すぐに逸らしたので、先輩がどういう表情をしていたかはあまり見えなかった。 DFの方をあまり見ないようにしながら練習を続ける。視線を感じた気もしたが、振り返らなかった。振り返れなかった。 暫くして、キャプテンの集合、の声で部員が一斉に集まる。監督が今日の練習はここで終わりだと告げた瞬間、張り詰めていた緊張感はしゅうと抜け、部員たちは暑いと唸りながら部室に歩いていく。 部活が終わった瞬間力が抜けて、頭がぼうっとして、なんだか自分の体が自分のものでないような気がしてくる。引きずるようにゆっくりと歩く足は、別の誰かに動かされているようだった。 今日の授業がどうだ、テストがどうだ。男子中学生らしい話題で盛り上がる部室で、先輩はキャプテンの隣で着替えている。俺のロッカーと先輩のロッカーは近い。俺は逃げるように隅の方に移動した。元々いつも隅の方で着替えているので誰も何も言わなかったが、先輩が一瞬こちらを見たような気がした。 少しだけ震える手から目をそむけ、素早く着替えて何も考えないようにしながら先輩の前を通って部室を出た。剣城ばいばい!という底抜けに明るい声が背中越しに聞こえた。 外は時間にそぐわずだいぶ明るい。兄さんのお見舞いに行こうか迷って足を止めていると、たったった、とリズムの良い足音が近づいてきた。嫌な予感がする。振り向かない方がいいと頭では思ったのに、好奇心に負けた身体が動いてしまう。 綺麗な、桜色。もう季節が過ぎ去ったその花によく似た長い髪が視界に入って、俺は逃げたくなった。 「……まだ、外全然明るいな」 「あ、の」 「剣城は、お兄さんのお見舞いに行かなくていいのか?」 「せん、ぱい」 「俺なんかほっといて、行ってもいいんだぞ」 「……行けるわけ、ないでしょう…」 こんな気持ちを抱えたまま兄の元に行ったって、きっと見抜かれてしまう。あの人は勘が鋭い。 俺の言葉に目を見開いた先輩を、半分睨むような気持ちで見つめた。あの日と逆の立場。先輩は整った顔をくしゃりと歪めて、泣きそうになっていた。泣きたいのは、こっちだ。 「…引いただろ」 聞くというよりは確認するような調子だった。何に、ですか。とっくに答えは分かっているのに、その問いに答えを出すのが怖くて、質問で返した。 泣きそうなくせにへらりと笑った先輩は、あの日のこと、と小さく答えた。何日か経っているのに、鮮明に浮かぶあの記憶。あの時は自信に満ち溢れたような顔をしていたくせに、今の先輩は妙に弱々しい。 「…そうですね。正直言えば、引いたし、びっくりしたし、頭おかしいって思いました」 青い瞳が歪む。水の膜が張った、気がした。よく泣く親友を慰める立場の先輩が泣くのなんて、滅多に見られないんじゃないだろうか。どこか冷静な部分でそう考える。 先輩はそれで言葉が終わったと思ったのか、ごめん、と震える声で言うと一歩踏み出した。その手をぎゅっと掴む。あの日を演じているみたいだ。先輩が俺を、俺が先輩を。 先輩。俺はあなたのこと、普通に良い先輩とだけ、思っていたんです。ずっと。それ以上になるなんて思ってもいなかった。自分の中で、そんなにあなたが大きくなるなんて、思わなかった。 あなたのことを避けていたのも、そんな自分を見られたくなかったから。 「…先輩にああ言われて、嬉しくなっている自分に、引きました」 ぬるい風が先輩の髪をさらっていく。先輩は信じられないというような表情を浮かべて、そのあと手でそれを覆って、ばっとしゃがみこんだ。足元にある先輩のつむじを少し見つめてから、俺もしゃがみこむ。 手のせいでくぐもった声しか聞こえないが、うそだろ、まじで、え、は?夢?と連呼している。ちらりとのぞく耳が真っ赤に染まっている。俺もなんだか恥ずかしくなってくる。 「せん、ぱい」 囁くように呼んだ。 「…なに」 「俺、あなたのことどうして好きになったのか、全然分からないし」 「…うん」 「あなたがどうして俺を好きになったのか、なんて、もっと分からない」 「…今度話してやるよ」 真っ赤な顔でにひ、と笑う。 「……あなたのこと、正直言うと苦手に思ってましたし」 「え!?」 「…今も思ってます」 「…なんで」 「考えていることが、全然分からないです」 「お前に言われたくないなあ、それ」 眉を下げて困ったように言ったその笑顔が、一枚の絵みたいだ。 「…でも、どうしてでしょうね。これで告白を断ったら、後悔してしまう気がした」 喋る頻度なら、天馬たちの方が上だ。学年も違う。家も近くない。部活で話して、パスをして、それだけだったのに、どうしてこの人に惹かれたんだろう。 今はまだ分からない。これからきっと分かっていく、そんな気がする。 温かい手がそっと頬に触れる。「顔真っ赤」あなたもですよ、と言う前に唇がふさがれて、そっと瞳を閉じた。 きこえますかこれがぼくの愛です/幸福 ちょっと京蘭っぽくなっちゃったけど蘭京ですよ 蘭丸さんは変なとこで大胆で変なとこで気弱です |