学園に生えた木々にも、花が咲くようになった。私に与えられた自室から見える梅の木にも白い花が咲き、春の訪れをひっそりと祝福していた。副長がこの梅を見たら、きっと一句詠んでいた事だろう。個性的過ぎて私には一生理解出来んだろうが。

「春ですねぇ」
「ああ」
「ぽかぽかしますねぇ」
「そうだな」

胡座を掻いた私の足の間にぴたりと収まった四郎兵衛は、梅から視線を外すと、上目遣いに私を見やり気の抜けた音が似合いそうな笑みを浮かべた。

最初は私の顔を見るだけで逃げ出していた四郎兵衛にどんな感情の変化が起きたのか分からないが、彼は私に懐いている。何故だか全く分からないが、毎回膝の上に座るぐらい懐かれている。これといって何かした訳ではないのに、だ。最初は四郎兵衛の変化を訝しく思っていたが、ひっくり返しても逆さにしても“裏”なんて無さそうな四郎兵衛の事を考えれば、単に気紛れなのだろうと思う。私が言うのも何だが、四郎兵衛は結構大雑把な子供だ。私の事を気にし過ぎて、逆にどうでも良くなったのではないかと思う。自分で言うのもあれだが…。


子供特有のぷにぷにとした手を弄っていると、四郎兵衛がくすぐったそうに笑い声を上げた。忍者になるべく鍛錬をしているせいか、四郎兵衛の手には小さな傷が沢山ある。これから傷はもっと増えるだろうし、柔らかさのある手も成長と共に固くなっていくのだろう。そしてこの手で奪う命も──。春の穏やかな空気とは裏腹に、一気に暗くなった気持ちを振り払うように、四郎兵衛の身体を腕の中に収める。突然抱き締められた四郎兵衛は不思議そうに首を傾げると、そっと私の頭に手を添えた。

「どうしたんですか?気持ちわるくなりました?」
「ん…大丈夫だ、問題ない」
「本当に?」
「ああ、本当だ」

私がそう言うと、四郎兵衛は訝しがりながらも素直に引き下がった。まさか四郎兵衛の将来を思って一人落ち込んだと言える筈もなく。要らん心配を与えてしまったと後悔の念が胸に浮かぶ。安心させるように笑いながら肉付きの良い頬をつついてやれば、四郎兵衛の頬がぷくりと膨らんだ。怒って膨らませたのではない、彼なりの反撃だ。くすくす笑いながら指先に力を入れれば、情けない音と共に口の中の空気が抜ける。その音に耐えきれないように四郎兵衛が笑い声を上げた。顔中で喜びを表現する四郎兵衛を見ていると、子供も良い物だと思える。まあ、これは四郎兵衛と保健委員限定だが。ひねくれた子供と生意気な子供、それからただ騒がしいだけの子供は全力で御免だが。

「名前さん良いにおいがしますー」
「そうか?自分じゃ分からないが…」
「ぼくには分かりますよー。優しいにおいです、お母さんみたいな!」
「……お母さん、」

子供も産んでいないというのに「お母さんみたいな匂いがする」とは…微妙な気分だ。嬉しいやら悲しいやら、色んな感情が入り混じってまともに反応すら出来ない。年齢的に考えれば、私にもこれくらいの子供が居ても可笑しくはないのだが──それを考えても、あまり嬉しい言葉ではない。そう思うのは私が未婚で、子供を産む気がないせいかもしれない。だが、矢張り未婚の女に言う台詞ではないと思う。四郎兵衛でなければ、ひっぱたいていたかもしれない。…例えば、そう──

「──名前さんみたいな母親だったら、僕は早々にグレるな」
「母親というよりは父親っぽいしな」
「いや、左近も三郎次も言い過ぎだって…」

こいつ等みたいな子供(久作除く)だったら、遠慮なくはっ倒していただろう。

「あれ?みんなどうしたの?」
「どうしたの、じゃないだろ。宿題手伝ってくれって言ったの誰だよ」
「あ…」
「やっぱり忘れてたんだな…」
「わざわざ探しに来た僕達に感謝しろよ!」

同い年だというのに、随分高圧的な物言いだな…。四郎兵衛はそんな事も気にせず、素直に感謝の言葉を告げている。約束を忘れていた四郎兵衛に否はあるが、少しぐらい怒っても良いと思う。良い子過ぎるのも問題だな、と思いながら四郎兵衛の頭を撫でていると、左近とばっちり視線が合った。彼は四郎兵衛の頭に添えられた私の手を見ると急に顔をしかめ、鼻息荒く視線を逸らした。…何故そんな態度を取られねばならんのだ。ひくりと口元が引きつるのが分かる。これぐらいの事で怒鳴り散らす気はないが、矢張り腹が立つ。四郎兵衛の可愛らしさを少し分けて貰えば良いのに、と思ってしまった私に否はない筈だ。四郎兵衛に視線を戻しながらそう思えば、私を見上げていた四郎兵衛と目が合い、輝くような笑顔を向けられた。矢張り左近は分けて貰うべきだ。

「算数の宿題が出てね、むずかしかったからみんなに教えてもらう約束してたんです」
「そうか。なら早く済ませて来い」
「はーい」
「名前さんって計算出来るんですか?」
「…出来るに決まっているだろう。三郎次、お前は私を馬鹿にし過ぎだ」
「でも名前さんって頭使うより身体動かす方が好きそうな気する、イメージ的に」
「それは…まあ。否定は、出来ないが」
「ほら、やっぱり」
「三郎次、お前後で覚えておけ」

左近と言い三郎次と言い、二年生には意地の悪い子供しか居ないのだろうか。四郎兵衛のように素直で、久作のように常識のある子供は極めて少ない気がする。一年生はあんなに素直で良い子だというのに…一年経つと性格に劇的な変化が訪れるのだろうか。子供の成長というのは未知だな。


…何時もなら此処で左近の嫌みが炸裂するのだが、今日は意味深な視線を向けるだけで一向に口を開く気配がない。先程までの勢いは何処へ行ったのか、驚く程静かである。ちらりと瞳を向ければ、眉間に皺を寄せてこちら──私の膝の上に居る四郎兵衛を見るばかり。約束を忘れていた四郎兵衛に対して憤りを感じているのだろうかとも思ったが、見る限りそういった瞳ではない。普段五月蝿い者が静かだと気味が悪いな、と思いながら左近を見ていると、襟をくいっと引っ張られる感触がした。左近から視線を外し下を見れば、四郎兵衛がくすくすと笑いながら耳元に口を寄せて来た。

「左近はね、ぼくがうらやましいんですよ」
「……羨ましい?」
「左近も名前さんのお膝に座りたいんですよ」
「…まさか」

左近には、初対面から嫌みを言われていた。子供の癖に良く此処まで嫌みが言えるな、とある意味感心させられたものだ。その左近が、四郎兵衛を羨ましがり、私の膝に座りたがっているだと?有り得ん、絶対に有り得ん。

「四郎兵衛の気のせいだと思うが…」
「じゃあ試しにお膝に乗せてみて下さいよ」
「左近を、膝に…?」
「二人で何の話してるんだ?」
「俺達を忘れないでくださーい」
「ごめんごめん、忘れてないよー」

四郎兵衛はそう言いながら私の膝から降りた。…左近を座らせろ、という事なのだろうか。四郎兵衛の事を知った気になっていたが、こういう一面を見ると全然理解していなかったんだなと思い知らされる。何だかこう、妙な悲しさがあるな…。不意に訪れた感情に落ち込んでいると、早くしろと言わんばかりの視線が四郎兵衛から投げかけられる。無視したら…拙いよな、やっぱり。暫く悩んだが、段々と四郎兵衛の視線が厳しくなってきたのを感じたので、大人しく言われた通りにする事にした。軽く痺れていた脚を伸ばし、未だに妙な表情を浮かべる左近の元へ歩みを進める。余程考え事に熱中していたのか、私が目の前に来るまで左近は私に気付かなかった。はっとしながら丸い瞳を私に向けた左近は、動揺を隠しながらも気丈に私を見上げる。度胸ははなまるだな。

「なん、ですか?」
「…先に言っておく。これは私の意志ではない」
「は?え、あ、ちょっ!?」

言いたい事だけ口早に告げ、左近の細い身体を抱き上げた。驚きの声を上げる左近を無視し、胡座を掻いた膝に素早く乗せる。呆気に取られ呆然と私の顔を見詰めていた左近だが、段々と状況が飲み込めたらしく、真っ赤になりながら手足をじたばたさせる。四郎兵衛に比べると、左近の身体は細い。いや、細いというよりは徐々に“男”の身体になってきているのだろう。全体的に固いのだ。その身体で暴れられると、骨と骨がぶつかり合って鈍い痛みが走る。手を離して左近を離せばこの痛みから逃れられるのだが、こういう時に限って負けず嫌いな性格が発揮されてしまう。良く分からんが「離したら負け」という勝手な基準が、私の中で今、勝手に決まった。

「暴れるな、痛い」
「っ!」

暴れる左近の身体を抱き締め、顔を近付けてそう告げれば、先程の暴れっぷりが嘘のように左近の動きが止まった。予想外に素直だな、と顔を覗き込めば、顔を真っ赤に染め上げた左近が信じられないと言わんばかりにこちらを見ている。…恥ずかしい、のだろうか。普段生意気な子供を服従させるのは、なかなか気分が良いものがある。大人しくなった左近の頭をぽんぽんと軽く叩いていると、右腕に重みが加わった。見れば満足げな笑みを浮かべた四郎兵衛が、右腕に寄りかかりながらこちらを見ていた。

「…満足か?」
「すっごい満足です!」
「それは…良かったな」
「はい!…あ、三郎次も久作も早く!」
「俺は全力で遠慮したい」
「俺もそこに加わりたくない」
「えー…」
「俺達は此処で良いから、好きなだけ甘えとけ。な、三郎次?」
「ああ。此処で見届けてやるよ」
「(見届ける必要があるのか?)」
「んー、じゃあちゃんと見ててね」
「(見てどうなると言うんだ…)」

膝の上で固まる左近と、満足げな四郎兵衛。そして生暖かい笑顔でこちらを見ている三郎次と久作。全体図を見れば何とも言えない妙な光景だが、生憎その中心にいる私にはぼんやりとその光景を想像するしか出来ない。いや、はっきりと想像して凹むよりは、ぼんやりと想像しておく方が良いのだが…。



四郎兵衛と二人で過ごす筈の休日だったが、気が付けば新しい顔が三つも増えていた。妙な光景になっているのは置いておくとしてだが──こういう休日も悪くはないと思う。

この世界の梅を見つめながら、徐々に力を抜き始めた左近の身体を静かに抱き寄せた。


2011/03/06▼Request Thank you!

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