彼の者の真意は知れず





「──三郎がした事、まだ怒ってらっしゃいますか?」

不破は苦笑にも似た表情を浮かべながら私に問うた。確かに新選組を侮辱した事は許せないが、だからと言って、未だに腹を立てているかと言われたらそうでもない。まあ、奴がまた神経を逆立てるような事をしたのなら、私の堪忍袋の緒は一瞬で切れるだろうが。しかし昨日の行動に対する怒り自体は今はない、勿論お前に対する怒りも──そう不破に告げれば、彼は安心したように息を吐き、今度ははっきりと苦笑を浮かべた。

「本当に、昨日は申し訳ありませんでした。後で三郎にも謝罪に向かわせます」
「…子供の安い挑発に乗ってしまった私にも非はある。だから、そう何度も謝る必要はない」
「いえ、三郎が動かなければ、名前さんが必要以上に危険視される事は無かった。あなたの命を危険に晒した以上、謝罪はしっかりしないと…」
「諄い。それ以上口を開いたら問答無用で殴るぞ」

話を遮るようにそう脅せば、不破はぐっと喉を鳴らしながら口を閉じた。本人が良いと言っているんだから、素直に止めれば良いものを。不破雷蔵という男は、見かけによらず頑固らしい。はあ、と溜め息を吐きながら髪を掻き上げれば、何か言いたげな不破の視線が突き刺さる。…口を開くなとは言ったが、それは謝罪の嵐を止めさせる為の物であって、別に喋るなと言った訳ではない。頑固なだけじゃない、こいつは生粋の負けず嫌いだ。鉢屋もなかなか面倒な男だったが、不破も負けず劣らず面倒な男である。普段の私ならからかい目的で不破の視線を無視する所だが、こういった性格の男を無視すると禄な目に会わない事を重々承知している。きっと、飽きもせずに睨みを効かせ続けるだろう。先程よりも大きめな溜め息を吐いた後、恨めしそうな瞳でこちらを見続ける不破と視線を合わせ、話せ、と疲れ切った声で短く告げた。その言葉を耳に入れた不破は、満面の笑みを浮かべてゆっくりと口を開いた。…良い性格をしてるな、本当に。

「髪、切らないんですか?」
「…あれだけ睨みを効かせておいて、第一声がそれか」
「ええ、どうしても聞きたかったので」
「…そろそろ切るつもりだ」
「なら、僕が今切ってあげましょうか?ちゃちゃっと」
「断る」
「僕に切られるのは嫌ですか?」
「お前絶対不器用だろう、だから嫌だ」
「うーん…不器用というよりは大雑把ですかね」
「……余計嫌だ」

途中から面倒臭くなって手抜きする事が明らかな人間に自分の前髪を任せるほど、私は愚かな人間じゃあない。というか、そんな人間に簡単に修正の効かない散髪を任せる馬鹿なんて居ない筈だ。少なくとも、私の周りには居なかった。


「何でですかー」と不満そうに文句を言う不破から視線を外し、本日三度目となる溜め息を吐き出した。朝っから何でこんなに疲れなきゃいけないんだ。蛞蝓は見せられるわ、変な奴等には絡まれるわ──厄日としか言いようがない。いっそのこと、大川殿の部屋にでも泊めて貰えば良かっただろうか。いや、それよりも昨日の内に此処から出て行けば良かったかもしれない。そうすれば、こんな面倒な事に巻き込まれる事もなかっただろうし。これだったら浪士に絡まれた方が随分と楽だった。

一瞬にして訪れた心労は身体中を巡り、重石のように身体に乗り掛かってくる。このまま保健室に戻って寝てしまいたいのだが、まだ蛞蝓が居るかもしれないと思うと身体はぴくりとも動かない。いや、それ以前に疲れ果てた身体が簡単に動いてくれる訳がない。くたりと木の幹にもたれ掛かりながら空を見上げれば、鬱陶しい程の青空が広がっていた。ああ、副長。名前は青空すら許せない程やさぐれてしまいました。何処かで怒声を上げているだろう副長に思いを馳せながら、もういっその事此処で寝てしまおうかと瞼を閉じた瞬間、さわりと空気が揺れ、研ぎ澄まされた感覚が新たな来訪者を告げた。今度は誰だ、と半ばうんざりしながら瞼を開ければ、不破の嬉しそうな声が響いた。

「そうだ、兵助なら上手く切ってくれますよ。すっごい器用だし、几帳面だし」
「…へいすけ?」
「久々知兵助、僕の友達です」

お前の友達には禄な奴が居ないじゃないか…そう言いかけた時、視界の端に人影が現れた。そちらへと視線を向ければ、癖のある長い黒髪をさらりと揺らしながら、利発そうな一人の少年がこちらをじっと見ていた。


──副長、厄がまた現れました。


「兵助、丁度良い所に来たね」
「何か用か?」
「名前さんのね、前髪を切ってあげたくて。兵助そういうの得意だろ?」
「ああ、まあ、苦手ではないな」
「良かったですね名前さん、適任者が来ましたよ」

何が良いものか!ひくり、と顔を引きつらせる訳を知ってか知らずか、不破は満面の笑みを浮かべている。それに釣られるようにして私に視線を向けた久々知は、無表情のまま口を開いた。

「未熟な私で良ければ、前髪整えますよ」
「…良い、遠慮しておく」
「そう仰らずに」

根に持ってる、全力で根に持ってる…!全身全霊で拒否していると言うのに、久々知は何処からか取り出した鋏をちゃきちゃきと動かし、無表情のまま私の前にしゃがみ込んだ。疲労感に包まれた身体を無理矢理動かそうにも、目の前に立った久々知が押さえ込むせいでまともに動く事すら出来ない。それどころか無遠慮に鋏を向けてくるせいで、大幅に動きが制限されてしまう。不破に助けを求めようにも、笑顔で「頑張れ」なんて言う男が助けてくれる筈がない。逃げる事も許されず、味方すらもいない私に出来る事はただ一つ──前髪を、諦める事、だろう。虚ろになりつつ瞳を隠すように瞼を閉じた私は、抵抗する力を緩め、木の幹に身体を預けた。微かに久々知の笑い声が聞こえた気がするが、それを確かめる気力すらない。

「(副長、出来れば今すぐ助けに来て下さい…!)」

前髪を梳く指の動きを感じながら副長への救護要請を出してみるが、勿論それが副長に届く事も、副長がうっかり助けに来てくれる事もない。


全身を襲う悲愴感に身を委ねるのと、しゃきっと軽快な音が響くのはほぼ同時であった。




平穏な日常、平和な光景。
それに気付くのは、ずっと先の事。
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