嵐の後の緩やかな一時




行灯の明かりが仄かに揺らめく。先程まで人で溢れかえっていた保健室に人影は無く、あの騒動が嘘だったかのような静けさに包まれていた。不寝番だと言っていた善法寺の姿が無いのも、恐らく先程の騒動があったせいだろう。私という危険人物と大切な生徒を同じ部屋で一晩過ごさせる訳にはいかない、とあの場に居た誰かが判断したのだと思う。妥当な判断だとは思うが、その気の無い私からすれば、あまりにも過剰な警戒に笑いすら込み上げてくる。尤も私が彼等の立場なら、問答無用で切り捨てていただろうが。

「傷は痛みますか?」
「…心配し過ぎだ。これくらいの傷、何ともない」
「何ともないで済ませられる怪我じゃないでしょう」

土井殿は眉間に皺を寄せ、溜め息混じりにそう言った。私の怪我は確かに重傷の部類ではあるが、十日も寝込んでいる間に大体傷は塞がっている。それに何よりも痛いか?と問われて素直に痛いと言うのは、私の矜持が許さない。困った様な表情を浮かべる土井殿から視線を逸らしながら胸中で悪態をつけば、何やら悟った様な土井殿に思い切り溜め息を吐かれた。失礼な。

呆れた様な土井殿の視線を全力で無視し、いそいそと布団へ潜る。既に温もりは無くなっていたが、妙に熱っぽい身体には丁度良かった。漸く身体の力を抜く事が出来、安堵感からほぅと息が漏れた。気力、体力共に使い果たした身体は、思った以上に疲労していたらしい。一気に回復する為には思う存分寝るに限るが──残念な事に、天井裏から注がれる視線がある限り、熟睡する事は許されないだろう。幾ら護衛が居ようとも、これだけ熱い視線を注がれてしまえば、気になって仕様がない。寝せない気か、と天井板を睨み付けたが、天井裏に居る者がその視線に返事を返す事は無かった。やけに冷静な男だ。私に気配を悟られていると気付いていながらも動揺する事なく、決して私から視線を逸らそうとしない。感情を感じさせない視線は兎に角静かで、気を抜けばうっかり見過ごしてしまう様な自然さだった。優秀な人材だとは思うが、監視される側から見れば面倒以外の何者でもない。土井殿に悟られぬ様小さく溜め息を吐き、静かに布団を被り直した。


橙色の炎が揺らめく室内で、土井殿は静かに机上で筆を走らせていた。護衛をしながら自分の仕事を片付けるつもりらしい。今日一日私に付き合わせてしまったのだ、きっと仕事も溜まっているのだろう。申し訳なさを感じながら土井殿が走らせる筆を見詰めていると、視線に気付いた土井殿が不意に顔を上げた。申し訳なさから表情が歪んでしまっている私にぎょっと目を見開くと、慌てた様に駆け寄る。

「ど、どうしました?傷が痛み出しましたか?」

土井殿は私の肩に手を乗せ、不安げに顔を覗き込んできた。痛みを堪えている様な酷い顔をしていたのか…と軽い衝撃を受けたが、そんな事で落ち込んでいる場合ではない。しかめていた顔を平常時に戻し、未だ不安げに私を見詰める土井殿に「大事ない」とだけ告げる。しかし土井殿は納得していないらしく、私の言葉に顔をしかめると、あからさまに溜め息を吐いた。意地を張っていると思われたのだろうか。慌てて身を起こしながら嘘ではない事を言えば、不機嫌そうな土井殿は何も言わずに私を見詰めた。

「本当に嘘ではないぞ?傷は痛まん、全く問題ない」
「だったらあの顔は何だって言うんですか?激痛に耐えている様な顔してましたよ」
「(そんな酷い顔してたのか…)」

あまり意識していなかったとは言え、激痛に耐えている様な顔──つまり恐ろしい程顔が歪んでいた、と言われれば誰だって凹んでしまうというもの。どんよりとした空気を背中に背負い始めた私を気にも止めず、土井殿は瞳だけで質問の答えを託す。優しい男だと思っていたが…案外厳しい一面もあるようだ。いや、そうでなければ教える側には立てないのだろう。忍者──人の命を奪う術を教える者なら、尚更厳しくなくてはいけない。しかし、そうしなければならないと理解していても、咎める様な視線を向けられるのは気分の良い物ではない。彼の教え子ではない私からすれば、それは尚更嫌な視線だった。

居心地が悪くなり、そろり、と土井殿から瞳を外したが、逆に彼の視線が鋭くなった気がする。私が素直に答えなければ、この視線は変わらないだろう。そう分かっているものの、この状況で「迷惑をかけてすまなかった」なんて言うのも妙に気恥ずかしい。しかも天井裏には、事の成り行きを静かに見詰める野次馬も居る。…無理だ、絶対に言える訳がない。思わず両手で顔を覆った私に、訝しがる土井殿の視線が突き刺さる。少しは空気を読んで気遣ってくれても良いと思うのは私だけだろうか?

「…大した事ではない」
「大した事ではないのなら、言って頂けますよね?」
「……明日じゃ、」
「先延ばしにしたら忘れたフリをして逃げるでしょう、名字さんは」
「……」

この男、案外手厳しいぞ。最早引きつる様な笑みしか浮かばない。両手で隠した先で私がそんな表情を浮かべている事に気付かぬ土井殿は、早く言えと言わんばかりに冷たい瞳を向けてくる。大の大人が、不毛なやり取りをしている。副長に見られたら間違い無く呆れられていただろう。総司には大爆笑されていたかもしれない。阿呆らしい、と。私もそう思っているのだから、笑われても仕様がないが…総司に笑われると考えただけで、腹の底が煮えくり返る様な苛立ちを覚えるのは何故だろう。日頃の行いのせいか?


私が傷の痛みを誤魔化していると勘違いしている土井殿に、嘘でも「痛い」と告げれば、このやり取りは簡単に終わるだろう。しかし真剣に私の様態を心配している土井殿に嘘を吐くのも憚れる。それに一度でも「傷が痛む」と言ってしまえば、土井殿は仕事そっちのけで看病しだすだろう。散々迷惑をかけたのだ。これ以上、彼の邪魔にだけはなりたくはない。

私が選ぶべき道は、最初から一つしかなかったのだ。

…まあ、散々駄々をこねまくって、ずっと“無駄な抵抗”を続けていただけなんだけどな。正直に言えば、今でも逃げ道を探しているがな!

「…一度しか言わん。しっかり聞いて、直ぐに忘れろ」
「そんな無茶苦茶な…」
「約束出来ぬのなら私は今すぐに寝る」
「…分かりました」

土井殿は苦笑を浮かべ、仕様がないと言いたげに了承の言葉を口にした。彼の態度に些か不満を覚えたが…とりあえず、今は目を瞑ろう。身体が火照る感覚がするが、敢えて気付かぬふりをして、私は妙に乾く口を動かした。

「…今日一日、付き合ってくれた事、本当に感謝している」
「……え?」
「それから仕事をため込ませてしまった事も…悪かったと、思っている」
「……」

きょとんと瞳を瞬かせる土井殿から急いで視線を逸らし、彼の返答を待たずに布団の中に潜り込む。全身から火が出そうなくらい、体温が上昇していた。布団の中で暴れ出したくなる程の羞恥を何とか押し殺し、必死に呼吸を整える。今なら羞恥で死ねる。絶対に死ねる。

羞恥心と戦う私とは裏腹に、布団の向こう側はやけに静かだった。恥を忍んであの言葉を告げたというのに、こうも反応がないと、いっそのこと笑ってくれた方がましに思える。羞恥に身悶えする私を放置し、それを見て楽しんでいるのだろうか?土井殿に限ってそんな事ある訳ないとは思うが、もしそうなら…私は間違い無く、彼をぶっ飛ばしているだろう。この羞恥心が吹き飛ぶくらい、全力で。


反応がないまま、どれ程時が過ぎたのだろう。土井殿の反応を待つ時間は無限の様に長く、時を刻む音が聞こえてきそうな程静かだった。このまま無反応を決め込むつもりだろうか。そういうつもりならば、いっそのこと私も寝てしまおうかと思い始めた頃、土井殿は長く続いた静寂を打ち消す様に言葉を発した。


ただ一言、ありがとう、と。


「…何故貴殿が礼を言う」
「…何故、でしょうね」
「私が聞いているのだが…」
「……頼むから何も聞かず寝て下さい」

そう言うやいなや、布団から微かに出た頭を誤魔化す様に撫でられた。子供をあやす様な手つきだ。普段の私ならば間違い無く手を振り払っていた所だが──何故か、その手を払う気にはなれなかった。笑いを含んだ声で「特別だぞ」と伝えれば、土井殿はくすり、とかすかに笑い声を零した。



優しい手付きに身を任せていた私は、緩やかに訪れた睡魔にゆっくりと身を任せた。布団の向こう側で、赤く火照った顔をした土井殿が、必死に熱を冷まそうとしていたなんて知らず。

そして天井裏の者が、企む様な笑みを浮かべているとは知らずに。

私は、静かに瞳を閉じた。



その日の夢は、ただ穏やかで。そして幸福に満ち溢れた物だった。
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