優しき眼差しの理由
右側から強い衝撃を感じた瞬間、私の身体真横に吹っ飛んで居た。咄嗟に体勢を立て直そうと身体を捻ったが、それと同時に傷口に痛みが走り、そのせいで上手く体勢を直せぬまま床板に転がった。床板にぶつかった痛みと、再発した傷口の痛みに呻く私を、声の主が押さえに掛かる。俯せに寝かされ、利き腕は背中で押さえ込まれた。幾ら頭に血が上っていたとは言え、一瞬で押さえ込まれてしまったという事は、新選組幹部としてあるまじき失態だ。鉢屋をしとめ損なった事といい、弁解の余地もない程局中法度に背いていた。どの道この学園の生徒に危害を加えた以上、生きて此処から出るのは難しいだろう。最後の情けで切腹させてくれると良いが…それすらも怪しい気がした。
「怪我人とは言え、うちの生徒に手を出すなら容赦はせんぞ」
低い男の声だった。彼も教師なのだろう。地を這う様な低い声には、免疫の無い者なら悲鳴を上げてしまう程の殺気が込められていた。すぐさま反論しようと口を開いたが、この状況では何を言っても無駄だろうと気付き口を閉じる。その間にも室内には何人もの人間が集まり、深夜だというのに騒がしくなりつつあった。このまま直ぐに尋問が始まるのか、それとも私刑が始まるのかは分からんが、どの道私にとって良く無い事が起きるのだろうと簡単に予想はつく。出来る事ならば生きて新選組の元へ帰りたいが──実際問題、それは難しいだろう。肌を刺す様な殺気を放つ彼等は、決して私を生かして帰したりはしないだろう。口から零れ落ちた溜め息は、きっと、諦めに近い物だっただろう。
私を押さえつけていた男は、私の腕を掴んだままぐいっと上半身を上げさせた。床板だけだった視界が一転し、今度は室内に居る人間の姿がに変わった。半数以上は闇夜に同化する装束の男達(大方教師だろう)、そして残りは色の様々な装束の少年達だった。暗くて色の識別は出来ないが、微かに色の濃淡だけは分かる。同じ色の装束を身に纏った少年が鉢屋を支える様に寄り添い、きつい瞳で私を睨み付けている。その少年は不思議な事に鉢屋と同じ顔をしているのだが──今気にすべきなのは自分の身の振り方と、微かに笑みを浮かべる鉢屋の事だろう。矢張り抵抗しなかったのは作戦か。だが、私の気に飲まれて居たのは紛れもない事実。作戦勝ちしたのは鉢屋だが、実力差では私の勝ちだ。こんな時でさえ勝ち負けに拘ってしまう自分の性格に呆れたが、それも個性という事で受け止める事にしよう。それにそんな事を考えられるくらい頭に上り切った血も下がった様だし、結果は良好だろう。…副長に知られたらただでは済まんだろうが。
「自分が不利な状況だと分かって居るのか?」
「重々承知している」
「…それにしては、随分と余裕がありそうだな。情けを乞うても良いんだぞ?」
「敵に情けを乞う愚かな武士が何処に居る。潔く死を受け入れてこその武士、それが士道だ」
そうきっぱりと言い切れば、室内に妙な静けさが広まった。武士を名乗っては居るが所詮は女、覚悟等無いと高を括っていたのだろう。仕方ない事とは言え、こうも素直に驚かれると反応に困る。間違った事は何一つ言っては居ないが、すまんと謝りたくなるのは何故だろう。居心地の悪い空気を感じながら身を捩れば、押さえつけていた男が慌てて腕に力を込める。こういうのも失礼かもしれないが…何だか間抜けな連中に思えて来た。実力はあるのだろう、しかし要所要所にぽろりと零れる“素の反応”が笑いを誘っている様にしか思えない。阿呆なのか、それとも馬鹿なのか。そこに突っ込む気は更々無いが、早めに気付けば良いと思った。
「──切腹はしないと、は組の生徒と約束したでしょう?」
次は何を言われるのだろうと静かに事の成り行きを待つ私に、穏やかな声が掛かった。見なくとも、誰の声か等すぐに分かる。静かに面を上げれば、そこには矢張り、頭に思い描いていた人物が居た。どうして彼は不審者である私を気にかけるのだろう。何をしたいのか今一理解出来ん。じっと見上げる私に彼は苦笑いを浮かべた。生徒達の訝しむ瞳も、厳しげな教師陣の視線も知らんと言わんばかりに土井殿はゆっくりと口を開いた。
「今回の事は鉢屋にも非はあります。名字さんだけに処罰を下すというのは納得出来かねません」
「…自分が何を言っているのか分かっているんですか?その言い方だと生徒に危害を加えた人間を許せと言っている様な物ですよ!」
「…確かに鉢屋にも非はある。だが私の教え子に危害を加えた人間を許す等私には出来ん!」
「…木下先生の言い分は最もです。しかし鉢屋が態と名字さんの怒りを煽らなければ、彼女だって危害を加える気は無かった筈です」
私は何故、彼に庇われているのだろうか。土井殿は周りの空気に物怖じせずに、きっぱりと言い切った。そのせいで自分の立場が危うくなると知っていながらも、迷う事なく言葉を紡いだ。意味が、分からない。ずっと私を気にかけ、気遣ってくれているのは知っていたが、此処まで私の肩を持つとは思いもしなかった事だ。呆然とする私に気付いた土井殿は、私の気持ちを読み取った様に微笑むと、しゃがんで私と視線を合わせた。
「…変わった男だな。私を庇って何の得がある?」
「得なんてありませんよ。まあ、強いて言うなら、は組の生徒達に頼まれているからですかねぇ」
「…頼まれている?」
土井殿の言葉に疑問を抱いたのは、私だけでは無かった様だ。教師達も生徒達も訝しがりながら土井殿を見ている。そんな視線を感じながらも、土井殿は微笑みを消す事無く言葉を続けた。
「一年は組の子達はね、色んな騒動に巻き込まれて、色んな人達と関わっている内に“善悪を見極める力”が備わりました。まあ、本能的に見極めているだけで、あの子達に自覚はないですけどね」
「…」
「あの子達が貴女を“善”と判断した。そして名字さんを助けて欲しい、力になって欲しいと私に頼んで来たんです」
「…だから、私を庇うのか?それだけの理由で不審者である私の肩を持つと言うのか?」
「あの子達は私の全てです。だからこそ、あの子達の頼みは何があっても叶えたい。例えどんな事であろうとね」
この男も、そして子供達も呆れるくらい馬鹿な連中だ。私がどんな態度で自分達と接して居たのか、どんな事を思っていたのか分かっている筈なのに。それ以外知らんと言わんばかりに私の助けになろうと尽力し、純粋なまでの“好意”を向けている。私は、彼等にそこまで想われる程素晴らしい人間では無いと言うのに。
(この感情を、何と言えば良いのだろう)
(胸に広がるこの熱を、どう表現すれば良いのだろうか)
──だから子供は苦手なんだ。
(しかし、もう嫌えはしない)
しんと静まり返った室内に、微かな呼吸音が響いて居る。土井殿の言葉に反論する人間が居ない所を見ると、あの子供達の“見極める力”を彼等も信頼していると言う事なのだろうか。彼等の感情まで把握する気は無いが、こうも静かにされると調子が狂う。先程の勢いは何処に行ったんだ。何だか顔を上げる事が躊躇われて、顔を伏せたまま静かに時が過ぎるのを待つ。誰でも良い、この空気を消し去ってくれ。
「──このままでは埒があきませんし、学園長先生に判断を仰ぎましょう」
私の願いが通じたのか、髭を生やした教師──山田、だったか?──が何やら微笑みながら言葉を発した。何かこう、嫌な笑みだ。
「この騒動だ、学園長も起きてらっしゃるだろう。今から名字さんと庵に行き、今後の処遇を決めて貰う。あの方の判断なら全員納得出来るでしょう?」
「…そう、ですね。それが最善でしょう」
山田殿達の会話を静かに聞いていた木下殿が、静かに私の腕を放した。山田殿の提案に賛成、という事なのだろう。しかし下手に動けば間違いなく切りかかって来る。空気がそう、伝えていた。全員の視線を感じながら土井殿の肩を借り立ち上がる。その時視界の端で善法寺(居たのか…気付かなかった)が何か言いたげにしていたが、敢えて気付かないふりをした。言うまでもないが、鉢屋の視線は全力で無視した。本当に、わざわざ言う事ではないがな。
「行きましょうか」
「…なあ、土井殿」
「はい?」
「私が死ねば、子供達との約束を違える事になるか?」
土井殿は驚いた様に瞠目すると、次の瞬間には暖かい笑みを浮かべていた。
「ええ。約束は“死なない事”ですからね」
ならば、どんな理由があろうとも私は死ねないな。
武士として、一度した約束は違えたりはしない。