武士という生き方
それは、漆黒の闇が広がる真夜中の事だった。
夕飯を食い終えた私は、善法寺に託されるまま床に就いた。しかし、幾ら疲れているとは言え、見知らぬ人間が居る中で熟睡出来る訳もなく、疲れ果てた身体を宥めながら浅い眠りの中を浮遊するしかなかった。何時寝首をかかれても可笑しくはない新選組隊士として生きていたのだ。ある程度の訓練を積んでいた私には、眠りを調節するなど造作もない事だった。声を潜めながら話す善法寺や食満の気配、そして影で私を監視する者達の視線を感じながら、浅い眠りに身を任せた。
──そうして、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
静かに退室する善法寺達の気配を最後に、部屋の中には束の間の静寂が訪れていた。それと同時に、身体の力が抜ける。まだ監視する者達の視線はあるものの、同じ室内から人の気配が消えたというのは大分気が楽だった。ほぅっと息を吐く。不寝番だという善法寺が戻って来るまでの間は、この睡魔に身を任せてしまおうと、張り詰めていた気をゆっくりと抜く。浅かった眠りが徐々に深い物へ変わっていくのを感じながら力を抜いていく──その矢先の事、だった。音もなく、室内へ脚を踏み入れた者達の気配を感じたのは。気配も足音も消しているが、肌の上を撫でる様な静かな殺気は隠し切れていない。いや、隠す気はないのだろう。威嚇目的かは知らないが、暗殺を目論んでいるならば、もう少し殺気を抑えなくては直ぐに相手に悟られてしまう。暗殺の初歩とも言える殺気の抑え方を彼等が知らないとは到底思えないし、大川殿達がそれを教えない訳がないと思う。威嚇、挑戦、警告…そのどれかは分からないが、忍び込んだ者達が私へ害を成そうとしているのは目に見えている。得手の無い状態というのは不安だが…この際仕方あるまい。私が起きているのを気取られ無い様呼吸に気を付けながら、静かにその時を待つ。
「──名字さん、起きてらっしゃるのでしょう?」
直ぐに攻撃を仕掛けられるものだと思っていた。しかし侵入者は私の思考を読み取った様な、楽しげな声色で話し掛けて来た。愉快犯、だろうか。必要とあれば彼は私に危害を加えるだろうが、今はただ単に“私”という人間で“遊ぶ”事を目的にしている様に思える。このまま寝たふりを決め込みたい所だが…こういう人間は、無視されればされる程喧しく騒ぎ立てる。それすらも楽しいと言わんばかりに、だ。小さく溜め息を吐きながら目を開け、ゆっくりと上半身を起こす。侵入者は暗闇の中で、静かに笑みを浮かべていた。
「こんばんは、名字さん。夜分遅くに申し訳ありません」
「…誰だ」
「おや、名字さんは随分とせっかちな様だ。そんなに急いては人生損しますよ」
「……」
先に言っておこう、私はこういう男が大嫌いだ。兎に角大嫌いだ。貼り付けた様な笑みを浮かべる男は、もはもはとした後ろ毛を揺らしながら胡座を掻く。何故腰を落ち着けてしまったんだ…前髪を掻き上げながら睨みを効かせれば、案の定男は笑みを濃くした。
「五年ろ組、鉢屋三郎と申します。珍しい御客人がいらっしゃったと聞きましたので、挨拶をと思い参上しました」
「…此処では真夜中に挨拶する様に教えられているのか?」
「まさか。そんな礼儀知らずな事を教える教師は、此処には居りませんよ」
当たり前だろう、と言わんばかりに目を見開く鉢屋という男を本気で、本気で殴りたかった。こみ上げてくる怒りを何とか沈め用件を訪ねれば、食満以上に憎たらしい笑顔で「挨拶に来た」と繰り返し言う。こんな真夜中に挨拶しに来る阿呆が居るか?真意は別の所にあるとしても、もっとましな嘘を吐いて欲しい。返答に困る。黙り込んだ私を見て、鉢屋は口元をゆるりと上げた。随分と愉快そうに笑うもんだ、と溜め息が漏れる。総司の様にこういう奴の扱いが上手い人間が傍に居れば、間違いなく丸投げにして逃げ出していた事だろう。いや、絶対に逃げていた。私の気持ちなんて知らない鉢屋は、胡座を掻いた膝に頬杖をつきながら口を開く。
「未来から来た、と伺いましたがそれは誠ですか?」
「…私の記憶と貴殿等の話に差違が無ければ、そういう事になるだろう。尤も私は信じてはいないが」
「信じては居なくとも、そういう可能性があるとは思ってらっしゃるのでしょう?」
「…だったら、何だ?」
「いやはや、名字さんは随分と夢見がちでらっしゃる!時間を越えただなんて正常な思考の持ち主は間違っても口に出来ませんよ!」
「…っ、」
この男は、人の神経を逆撫でする才能があるらしい。鉢屋の一言一言が折角沈めた怒りを再び呼び起こし、私の胸に燃える様な感情が生まれ始めた。しかし、だからと言って私が鉢屋に飛びかかる訳にはいかない。此処で騒動を起こせば、間違いなく人が来る。穏便に情報を得たいと考える私に不利な状況に陥る事は目に見えていた。もしかすると、鉢屋の目的はそれなのかもしれない。私に対する認識を“不審者”から“危険人物”に変え、正当な理由と共に私を処分するつもりなのだろう。そういう企みならば、鉢屋の挑発に易々と乗ってやる訳にはいかない。ゆっくりと息を吐きながら、憎たらしい鉢屋の顔から視線を逸らす。
しかし鉢屋三郎という男は、私が思う以上に“人の怒り”を突くのが上手い男だった。
「新選組、でしたっけ?それも夢見がちな名字さんが考えた“夢の話”ですか?」
「…何だと?」
「まあ夢でなかったとしても、浅葱色の羽織なんて妙な物を揃って着る様な人間に、まともに刀を振るえる訳ありませんけど」
「──っ!」
堪忍袋の緒が切れる音が、確かに聞こえた。
鉢屋の企みだとか、情報だとかそういった物は頭から抜け落ち、気が付けば鉢屋に馬乗りになっていた。襟を掴み上げ真上から睨みを利かせる私を、鉢屋はただただ笑って見上げている。憎たらしい顔だ。そして“武士”という生き物を微塵も理解していない表情だった。
「…新選組は誠の御旗の元に集った真の武士の集まりだ。貴様の様な餓鬼が貶して良い物ではない」
「そうは言っても、たかが武士集団でしょう?何か神聖な物のようにおっしゃっていますが、人斬り集団に変わりはない」
「…」
「それよりも良いんですか?私が大声を出せば人が集まりますよ?学園に仇なす人物を生かしておく程、我々は甘くはない」
矢張り、鉢屋は武士という生き物を理解して居なかった様だ。
鉢屋の脅しに笑みを浮かべれば、彼の表情が僅かに曇った。この状況で私が笑みを浮かべるとは思って居なかったのだろう。つくづく馬鹿な男だ。ゆっくりと鉢屋に顔を近付け、至近距離で静かに口を開いた。
「お前は何か勘違いしている様だな」
「…何?」
「武士という生き物はな、矜持を傷付けられて笑っていられる程出来た人間じゃあないんだよ」
「…」
「例え腕をもがれ様とも、脚を切り離され様とも。例え、首だけになろうとも──誇りを貶す者には、死をもって償わせる。それが武士という生き物だ」
ぐっと息を飲む鉢屋の首を、指先でゆっくりと撫でる。先程までの勢いは何処へ行ったのか、鉢屋の顔には若干の焦りが見られた。馬鹿な男だ。五年という歳月をかけて“教育”を受けて来たとしても、我々の様に毎日が“実戦”であった人間にしてみれば、鉢屋達はまだまだ未熟者だ。血の匂いが染み付き、それさえも苦痛に思わなくなった人間の気迫に、彼等が勝てる筈もない。親指で喉仏をゆっくりと押すと、苦しげな呻きが漏れた。抵抗する様子が見られない所を見ると、完全に飲まれてしまったのだろう。相手の実力を見誤るからこうなるのだ。
「先程貴様が侮辱した新選組には、鬼の定めた厳しい掟があってな。それに背いた者は切腹させられるのだ」
「っ、」
「売られた喧嘩を一旦買ってしまった以上、貴様を倒す以外に道はない。士道に背いた事になり、切腹を申し付けられるからな」
鉢屋の胸元に空いた手を滑らせれば、案の定苦無が仕込まれていた。にやりと笑みを浮かべながらそれを抜き取れば、鉢屋の顔色が変わった。抵抗させぬ様喉仏をぐりっと押し上げながら苦無を持ち直す。暴れるだろうと予想していたのだが、鉢屋は抵抗する気配すら見せない。何かまだ企みがあるのかもしれないが──もう、どうでも良かった。自分で思う以上に苛立ちや不安が募っていたのかもしれないし、ただ単に考える事を放棄したのかもしれない。自分でも良く分からないが、上手く思考が働かなかった。ただ目の前に居る人間を排除する事だけが、私を動かす原動力だった。握り直した苦無を振り上げ、目を見開く鉢屋に笑いかける。
「──己の犯した罪は、己の命で償うが良い」
勢いを付けて苦無を振り下ろしたのと、闇を裂く様な怒声が響いたのは、ほぼ同時の事だった。
あの時の私は、確かに狂っておりました。