中・短編 | ナノ




朝起きた時から予感めいたものはあった。

何処が悪いというわけではないけれど、なんとなく魂と体が一致していないような不安感。
この世に生を受けてこの方、この体しか経験したことのない身だ。原因がはっきりしない程度の不調には慣れきってしまっていて、だからこそ欲が出たのだ、と英智は今朝の自分をそう分析した。だって近頃の学院は素晴らしい。誰も彼もがいきいきしている。生きた顔をした生徒らの顔を眺めていると、まるで己が生きているかのような錯覚をするのだ。
夢ノ咲の名の如く彼らの夢が花咲く瞬間を、ベッドの上でなく、目の前で見ることが出来るのは、英智にとって幸せだった。

多少具合が悪くとも、彼らの傍にいたかった。
満ち足りたような気分とは裏腹に、ひゅう、と喉からいやな音。


fineの練習を終えた直後だった。自分の不調は分かり切っていて、それでも彼らと共に花咲きたくて無理をした。練習の最中は夢中で気付かなかったけれど、虚弱なこの体のキャパはとうに超えていたのだ。
一心に己を慕い、尊敬していると言って憚らない桃李の前で倒れなかったのが、せめてもの意地だった。

ひゅう、と喉が鳴る。

今日は演劇部の活動もないので早く帰ります、と言って渉がいなくなった。皇帝陛下はお疲れですよ、となかなか帰ろうとしなかった桃李の首根っこを掴んで連れていってくれる彼の優しさに感謝する。弓弦が愛らしい声で抗議しながら引き摺られて行った主の背を追い掛けるのを笑顔で見送った。
練習室の扉が閉まるその瞬間まできちんと見届けて、膝からくず折れる。

「はぁ……は……っ、」

ぜいぜいと喘ぐように、みっともない息を繰り返す。ひゅうひゅう音の鳴る胸は幼い頃から何度も経験しているから慣れたもので、今となっては戸惑いすらない。練習後の火照る体とは裏腹に冷めた頭で、そういえば久々だな、と思った。
最近は滅多になくなっていた喘息発作。久しく味わっていなかったそれは相変わらず苦しくて堪らなくて、泣きたくないのに視界が滲んだ。息苦しいのに、息を吸えばいいのか、吐けばいいのかすら分からない。咳が酷くなる前に薬を、と思っても体がうまく動かなかった。練習終わりの汗に塗れた心地よい倦怠感は、冷や汗の寒々しさに取って代わる。

万が一に備えて持ち歩いている吸入器は部屋の隅の鞄の中だ。子どもの頃からこういった時には必ず助けてくれた敬人の顔が浮かんで、ダメだ、と英智は首を振る。幼い頃から尽くしてくれた。彼はきっと、ここらで開放してやるべきなのだ。英智以外の大切なものができた今がその時。
立ち上がることも出来ずに手を伸ばした。届くわけがない。氷のように冷たくなった指先は見るに耐えないほどに震えていたけれど、涙で滲んだ視界ではよくわからなくて助かったと思った。これ以上惨めな気持ちになるのは御免である。

「はぁっ……ぁ……けほっ……くる、し……」

酸欠でくらくらする。正常な思考をするには些かエネルギーの足りない頭で、ちょっとまずいな、と他人事のように思った。今度こそ本当に死ぬかもしれない。冗談でなく。

視界が狭まる。黒く塗りつぶされていく。苦しい。
咳と咳の間で、呼吸と呼ぶのも烏滸がましい呼吸未満を繰り返す。冷えた指先。重い体。胸が痛い。
体が震えて、どうやっても足が前に出なかった。苦しい。苦しい。苦しい!



無意識の内に再び懸命に伸ばしていた冷たい手、


誰かに、握られる。



「ゆっくり、息をしてください。なるべく深く。」



心地良い声。それが誰かとか、どういう状況なのかとか、細かな事は全て吹き飛んでいた。ただただ耳朶を打つ柔らかな声に耳を傾けて、導かれるがまま呼吸をする。差し出された吸入器を無我夢中で吸った。

「わたくしの呼吸に合わせてください…………そう、お上手ですよ。その調子。」

ゆっくり息をしたところで発作中は吐けないし吸えないのだけれど、不思議とその声を聞いただけで気が楽になる。決して背の低くない英智を軽々と抱き込んで、一定のペースで背を叩いてくれているのが弓弦だと気が付いて、英智は尚更しがみついた。
ゲホゲホと汚く咳き込む背中を、弓弦の指の長い手が撫でる。赤子をあやしているようだと思ったら急に恥ずかしくなって、見た目より逞しい肩に額を付けた。

「ゆづる、」
「はい」

間髪入れずに返ってきた優しい声が耳に擽ったい。
英智は乱れた呼吸を整えるように大きく深呼吸をした。練習の後だ。いつも清潔な柔軟剤の香りに包まれている彼から、知らない匂いがした。

「ごめん。……もう少しだけ、このままでいいかい」
「皇帝陛下の望むがままに。」
「ありがとう。」

fineの白いユニット衣装を着たままのきみが、天の国へと己を誘う天使のように見えたのだと言ったら、きみは笑うだろうか。





肝が冷えた。
薬の吸入を行ったからか、己の腕の中で落ち着いた呼吸を取り戻した英智に弓弦はほっと息を吐く。
間に合ってよかった。本当に。
喘息発作は酷い場合命に関わるはずだ。詰ればそんなに大袈裟じゃないよとこの男は笑うのだろうが、看過できることでもなかった。

間に合ってよかった。心の底から。



練習が終わってすぐのことだ。弓弦の可愛いぼっちゃまの首根っこを掴んで無理矢理練習室から引きずり出した日々樹渉が、珍しく苦笑なんてしながら弓弦に小さな声で囁いた。

「ちょっとお願いがあるのですが」

珍しいなとは思ったが口には出さない。ただ何でしょう、とだけ返す。幼い頃から使用人として働いてきた己にとって、頼まれごとは苦ではなかった。

「姫君は私が送ります。だから貴方は皇帝陛下のところへ向かって貰えませんか。」
「……それは、構いませんが」

何故だろう、と思ったのが顔に出ていたのかもしれない。渉はいっそう眉宇を寄せて、しかしそのまま笑うという器用な表情をつくってみせた。

「貴方も気付いていたでしょうが、英智は今日、おそらく体調がよくありません。」
「それは……ええ、確かに気付いてはおりました。ですがそれとこれに何の関係があるのでしょう?」
「分かりませんか?あの男、今頃部屋で転がってますよ」

至極当たり前のようにそう言われ、一瞬理解が及ばなかった。は?と目を見開いた弓弦に、普段なら「おお!いい驚き顔ですね!これはいいものが見られました!Amazing!」と一人でテンションを上げるだろう三奇人が一人が何も言わない。ただ苦しげに眉を歪め、ひどく口惜しそうに視線を廊下へ落とす。

「練習が終わる直前の呼吸音、あれは肺の浅いところでしていたものですが、それでも隠しきれない異音が含まれていました。あれは間違いなく発作の兆候です。彼は完璧に隠したつもりだったのでしょうが、私の耳は誤魔化せない。」
「やけに早く解散したのはその所為ですか」
「ええ。皇帝とて男ですからね。姫君がいると見栄を張る。そして道化の役割は、彼の隣で寄り添うことではなく、彼の数メートル先の舞台で踊ることです。」

彼の手をとることじゃない、ともう一度自らに言い聞かせるように呟いた日々樹渉に、弓弦は頭を下げた。

「ぼっちゃまをお願い致します」
「ええ。そちらこそ、英智を頼みます。吸入器は部屋の奥、椅子の上の英智の鞄の中です。自分で出来ていれば問題ないですが、まだ無様に転がっていたら取ってあげてくださいね。使い慣れたものですし、手元にあればあとは勝手にやるでしょう。」

以上、ここまでが超小声かつ高速で行われたやりとりである。練習中に英智に褒められた余韻で頬を薔薇色に染めたまま、二人の数歩先をずんずんと歩く桃李は知らない。

渉はにこりと笑って道化めいて手を広げると、すうと息を吸って声を張り上げた。

「任せてください!平和ボケした現代日本で姫君を守りきるくらい、道化でも余裕でしょう!さーあ姫君ぃ、今日は私と一緒に帰りましょうねぇ!!」
「うわっロン毛!なんだよ!弓弦!!?」
「わたくしは生徒会長様をお送りして参りますので、ぼっちゃまは本日渉様に送って頂いてください」
「えっ何で!?なっ…………まあ会長ならしかたないかなぁ。っておいこらロン毛!肩車するな!かたぐ……ちょ、こわ!高い!こわい!うわぁぁぁあ!」

あああぁぁぁぁ……とフェードバックしていく桃李を最後まで見送らずに、弓弦は踵を返した。歩みは自然と早くなる。最後はほとんど駆け足で、練習室の扉は体当たりをするようにして開けた。



練習室の床。
温かな色合いの木の床の上に、蹲る白。

心臓が止まるかと思った。


とりあえず渉に言われたように吸入器を用意して手渡して、後はどうすればいいのか分からなくてとりあえず抱き締めた。一定のペースで背を撫でる。自分の呼吸音を聞かせるといいというのは過呼吸だっけ、なんて考えながら、今夜にでも喘息の対処法を学ぼうと決意した。
背を撫でて、話しかけて、呼吸を促して。どれかが功を奏したのか、それともただ単に薬のお陰なのかは分からない。とにかく今は通常の呼吸を取り戻した英智が、弓弦の胸で項垂れている。

(よかった……。)

やがて顔を上げた英智が普段の彼からは考えられないほど不器用に笑うから、堪らなくなって手を伸ばして、

―――――我に返った。

この人は弓弦ごときが触れていい人ではない。
現代社会で階級尺度なんてナンセンスだという自覚はあるが、こればっかりは幼い頃から染み付いたものだ。
弓弦が主人と仰ぐ可愛らしいぼっちゃまが、慕い尊敬している高貴な御方。弓弦にとって英智は、一種の聖域のようなものだった。

怯んだ手のひらを、英智に捕まえられる。
あまりの弱々しさに遣る瀬無くなって、結局自分から握りしめてしまった。氷のように冷たい。

「みっともないところを見せてしまったね、弓弦。どうか忘れて欲しい。」
「いいえ、それは出来かねます。」
「……へえ、珍しい。僕のお願いを聞いてくれないのかい?」
「生憎と私の主人は貴方では御座いませんので」
「それもそうだね。」

ふふ、と笑う顔は発作の名残を色濃く残し、白い頬の上を生理的な涙が伝う。潤んだ目。小さく震える肩。

彼は、聖域だ。汚してはならない。この学院の頂点に、堂々と、高圧的に、自信満々に君臨していなくてはならない。

そんな人が今弓弦のこの二本の腕の中で震えていることに仄暗い喜びを感じていると言ったら、英智は何と言うのだろう。
こぼれ落ちる寸前まで涙の溜まった下瞼。薄く開いて喘ぐ唇。必死に弓弦に縋り付く様を見て、浅ましい気分になった、なんて。
なんて汚い。本人は苦しんでいるのに、その苦しげな顔が胸の中にあることが嬉しかった。

(汚い)

心の声が万が一にでも漏れぬよう、キツくキツく栓をした。代わりに開いた口から出るのは、思ってもいなかったことばかり。

「次に苦しくなったら、わたくしを呼んでください。貴方一人ではいつか死んでしまう。」
「失礼だなぁ。僕はもう自分で何でもできる歳だよ。」
「次からわたくしに知らせるのと、今日のこれをぼっちゃまにバラされるのとどちらが良いですか」
「……やれやれ。可愛くない後輩だ。」
「申し訳ございません。手のかかるあるじを持つと強かになりまして。」

(汚い)

愛するぼっちゃまの傍に在ること。fineの一員で在ること。皇帝陛下の駒で在ること。全部全部、綺麗でなくては成り立たないことだ。

(汚いことは、忘れなければ)


「まったくこの体は弱くて忌々しいね。」と自嘲するように笑った彼の弱さがいとおしくて堪らないこと。

知られないように心の奥底に隠して、「そうですね」と笑った。







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(170305)







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