中・短編 | ナノ





名を呼ばれた気がして目を開けようとしたら、ひどく重くて開かなかった。ぐ、と眉間に力を入れる。
その頃には呼び声だと思ったものは人の声でなく波の音だったと気付いていたけれど、それならば何故海の近くで寝ていたのかが気になるところ。元親は一度脱力して、再度瞼に力を込めた。
今度はうまくいった。隙間から差し込む陽の光。どうやら本当に、此処は外らしい。

起き抜けの目は霞む。ぼんやりとした輪郭しか分からない。白く丸く先細りの卵のようなかたち。誰かが目の前にいるようだ。
野郎共にしては色が白ぇなと思って、元親はパチリとひとつ瞬きをした。視界の曇りは幾らか晴れたがまだまだぼやけている。よく見ようとして細めた目が、目と耳と鼻と口らしきものを捉えた。随分小さな鼻に、随分大きな目だ。団子っ鼻の勝次と糸目の繁実の線は消えた。

もう一度、元親はパチリとやった。
ここでようやく気づく。女だ。

「おはようございます」

柔らかに微笑む絶世の美人が、元親を覗き込んでいた。



「え……な……は…………、」

一瞬にして言語中枢がやられた。
意味の無い言葉をポツポツと吐き続ける元親を見た女がクスッと笑う。

「お侍さま、どこか具合の悪いところはありませんか」
「具合……?」
「はい。わたしが貴方を見つけたのはつい先程なのでよく分かりませんが、貴方、溺れていたんじゃないでしょうか」

溺れた。

その一言ですべて思い出した。
毛利の野郎のせいだ。
いつものように毛利と海上で小競り合いをしていて、すぐ近くで向こうの兵が打った大筒が爆発した。
幸い弾にも当たらず爆風にも巻き込まれなければ、飛び散った木片などにも掠らなかったのに、毛利のあのデカい一文銭みたいな訳の分からない形の武器が飛んできて、勢いよく頭に当たったのだ。当たったのが輪刀の腹といえばいいのか、側面と呼ぶべきなのか、とにかく刃ではないところだったからよかったものの、下手したら死んでいたなと思う。
ああ、そうだ。思い出したらふつふつと怒りが湧いてきた。
軟弱な体しやがって、テメェの武器くらいきちんと握っとけってんだ。だいたいあんな奇妙なかたちの武器を使っているから風に煽られるわけで、あの大きさの鉄の塊を頭に当てるなんて殺す気かよ……そうだ殺す気だった。
思い返せばじんじんと痛む額はたぶんパックリと割れているのだろうけれど、止血処理が施されているようで傷口には触れなかった。この女がやってくれたのだろうかと横になったまま美しい顔を見上げれば、美しく微笑まれる。

「お侍さま。いつまでもこんなところにいるのもなんですし、どうぞわたしの家へ来てくださいな」

早く帰らなくては野郎共が心配するだろう、目の前で慕っているアニキが気を失って海に落ちたなんてアイツらの心痛は如何程のものか、と考えていたのに、そう言われたら意味を理解する前に頷いていた。

「わたしは由仁といいます」
「俺ァ……弥三郎だ。」
「弥三郎さま。」

起き上がるために手を貸す者と貸される者の変な挨拶になった。由仁は膝立ち。体を起こすと地面が揺れて、身構えた途端に背に由仁の手が添えられたから、辛うじて揺れているのは地面ではなく自分なのだと分かったものの、背に当たる由仁の手のひらはずいぶんと小さいし、由仁が立つ右隣からは心なしかいい匂いがするし、何だかもう、眩暈に次ぐ眩暈で体を真っ直ぐ保っていられない。

けれどふわふわとした夢のような感覚は、由仁が立ち上がった途端勢いよく霧散して消えた。
元親に続いて立ち上がり、案内のため追い抜かして数歩先を行く背に、違和感。何だろうと首を傾げる間もなく、由仁の小さな背が傾いでいることに気付く。

「こちらです」

一歩。踏み出した足は砂浜に一本の線を描いた。
また一歩。二本目の線。

三歩目で由仁の足が砂浜に僅か沈み、足を取られて転びそうになったところで辛抱出来なくなった。
若木のように細く頼りない腕の手首を掴む。
元親の太い指と対比すると、ヒグマが白百合を摘んだようだ 。

「アンタ、足が」
「ええ。」
「いつからだ。まさか、戦で……?」
「いいえ。生まれた時からこれはこんなふうです。」
「どうやって生活してんだ」
「歩けますので、困ってはいません。人よりは下手かもかも知れませんが」

そう言ってまたえっちらおっちら歩きだそうとするから、元親は小さく溜め息をついて、小さな体を一息に抱き上げた。きゃあ、とかぁいらしい悲鳴を上げた唇がすぐそこにあって、右手はまぁるくて柔らかい臀部にあるが、不可抗力だ。顔が赤いと言われたら日焼けだと言おう。

「す、すみません、お侍さま。」
「弥三郎だ」
「や、弥三郎さま。」
「構わねえさ。家はどっちだ」

あちら、と嫋やかな白百合が元親の目の前を横切った。




由仁の家は海沿いにあった。家族はいない。春にフキノトウを取りに行って、そのまま帰ってこないのだと何でもないふうに言う。
今は夏も終わる頃。野盗にでも襲われたか、足でも踏み外したか、何にせよ生きてはいないのだろう。
由仁の小さな家の周りには元親が見る限り他の家は見当たらず、親もないままあんな足でよく生きてきたものだと思う。しかし由仁は慣れたもので、萎えた足で実に器用に歩いた。狭い家を膝と腕で歩き回る。

「お客様がいらっしゃるって分かっていれば、お菓子のひとつも用意しておいたのになぁ」
「いや、構わねェでくれ。手当てしてもらえただけで有難えよ。」
「そう、手当て。さっきは海だったから中途半端なの。ちゃんとやらなきゃ」

そう言うと由仁は部屋の隅まで這っていって、小さな箱を手に取った。中にはたくさんの薬が入っている。とても農民の家にあるような代物ではない。
どうやって手に入れたのかと訊けば、由仁は微笑んで言った。

「母が、薬を作るの得意だったんです」

なるほどそうなのか、と頷いて大人しく手当てを受けた。薬草のにおい。包帯を巻く手つきがいやに手馴れているのは、普段転んだりして怪我をすることが多いからだろうか。細いからだがころりと転げて白百合の手足に傷がつくのを想像して、元親は俄に嫌な気分になった。いやいや、と首を振る。
そんなの、俺にァ関係ねーし。

次に由仁は「有り合わせで申し訳ないですが」と非常に恐縮しながら雑炊を作ってくれた。うまい。おふくろの味という言葉が頭に浮かんだが、元親のおふくろは料理をするような人ではなかった、というより料理をするような身分ではなかったのでピンと来ない表現だ。

「こんなものですみません」
「いや、うめーよ。」

普段元親が食べているものと比べれば確かに具材も少なければ質素で粗末なものだろう。けれどこんなに旨いのはきっと、日にちを指折り数えて残りの材料を計算しているような暮らしの中でこうしてご馳走してくれようとした気持ち分が乗算されているからに違いない。
御簾の向こう側で豪奢な着物に身を包んだ慎ましい姫様にぼんやりとした憧れを抱くのは男の性だけれど、嫁にするならこういう家庭的で慕わしい女がいいなと考えて、勝手に恥ずかしくなって誤魔化すために飯をお代わりした。「そんな、気を使ってくださらなくても」と苦笑する由仁はどことなく嬉しそう。

「今日はうちでお休みになって、明日お帰りになったらいかがですか?」

此処は長曽我部さまのお城のすぐ近くだけど、もう暗くなるからとやんわり提案されて、それもそうだなとお言葉に甘えることにした。女が1人暮らしをしている家に泊まるなんてと思わないでもないが、そこはそれ、元親の方が不純な想いを抱かなければいいだけの話である。

「拾ってもらって助けてもらって、手当てしてもらって、飯食わせてもらって、その上宿まで借りるってなると、頭上がらねえなぁ。」
「ふふ。たいしたことじゃない……なんて言ったら、弥三郎さまを軽んじているみたいになってしまいますから、御礼の言葉だと思って頂戴します。」
「言葉だけじゃ足りねえよ。アンタなんか困ってることとかねえのか?」

そんな足で一人暮らしだ。出来ていないこともあるに違いないと、元親は考えた。

「そうだ!」




二歳児みたいに歩く由仁に先導されて辿りついた薪置き場には、斬ったばかりの薪が山盛りに積まれていた。

「これどうしたんだ」
「たまたま父と母が亡くなる前にたくさん用意しておいてくれたので」

それにしても大量だ。これだけあれば暫くは困るまい。薪割りは男の仕事だと思ったけれども、この分だと必要なさそうである。
元親は顎に手を当ててふーむと考え込んだ。代案を探さなくては。

「……そうだ!」



家の裏手には大量の魚が干してあった。

「これどうしたんだ」
「つい二日ほど前に頑張って釣って干しました。」

薪割りも駄目。食料調達も必要なし。思っていたよりずっと、由仁は逞しく生きているらしい。
これでは恩が返せないではないかと腕を組んで気難しい顔をした元親の肩に、そっと繊手が添えられる。


「あの、弥三郎さま?お気にならさないで。わたし、本当に、見返りなんて考えずにお声をかけたの。」

困ったように笑う由仁のいじらしいこと。
何だかここまで来たらこの不憫な娘にどうにかして恩を返したい!という思いが強くなってしまって、「おー、悪いなァ」なんて生返事をしながらもどうにかしてこの娘を喜ばすことが出来ないかとばかり考えていた。

初対面の日の夜。暗くなりきる前のこと。





「……弥三郎さま。起きてる?」

夜中声をかけられた。
茣蓙の上に寝転がって着物をかけただけの簡易寝床の距離は遠い。小さな家のあちら側とこちら側だ。
けれど夜で他に遮る音がないとくれば、ほんの小さな囁き声でも十分に届いた。喉を頑張らせない声が耳に擽ったい。
返事をする前に、こんな時間に何の用事だろうかと一通り考えてみた。ら、ちょっとというか、かなり助平な想像が浮かんでしまった。やべ。一晩のお礼に慰めてくださいとか言われたらどうしよ、と本気で焦る。

「あの、今日はありがとうございました。誰かと過ごすのって久しぶりで……楽しかった。」

相変わらず喉を張らないふにゃふにゃとした声で、由仁が続けた。あぁそうか、と思う。
この人は春に両親がいなくなってから、ずっと一人で生きてきたのだ。それはさぞ寂しかったことだろうと想像してやろうとして、やめる。生まれてこの方本当の意味で『ひとり』になったことのない元親に、彼女のさみしさを推し量ることなんてできないと思ったからだ。

「……寝てる?」

随分と砕けた言葉は、元親が本当に寝ていると思ってのことらしい。元親が返事の言葉を用意出来ないでいる間にどうやら寝ていることにされてしまったようだ。それなら、とたぬき寝入りを続ける。

「どうかそのまま起きないでください。わたし、今からとても弱いことを言うから」

小さな声。
聞き逃さないよう耳をそばだてる。

「……どうかまた、会いに来て」
「当たり前だ。」

間髪入れずに返事をしてやった。
由仁はハッと息を呑む。
「弥三郎さま……?」
起きていらっしゃったのですか、という問いには寝息を返した。心地よい沈黙の遠く向こうに波の音。

ふふ、と由仁が笑った。

「寝言だったと思うことにします。とっても優しい人の、とっても優しい寝言。……おやすみなさい。」

呟いた少女の呼吸が規則正しいものに変わって、夜が更けて、空が白んできても、元親はずっと考えていた。
果たして昨日今日出会った娘に恋をすることなどあるのだろうか。
そういう恋もあるのだと思うには己の恋愛経験は些か足りず、これが恋だと断言するにはあまりにも淡い想いであった。

ただひとつ確かなことは、己はまた遠くない内に此処を訪れるだろうということ。







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(161212)





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