中・短編 | ナノ



天女だった。


豊かに波打つ黒髪は月の光に煌めいて、肩から腰にかけての曲線は芸術品のように美しい。湖面に沿ってたゆたう髪はまるで黒い羽衣のように見えた。
水音。
妖術でもかけられたかのように身動きが取れずにいた此方を、彼女は、あ、ほら、振り返って、


振り返って


形のよい



乳房が、






その日は朝からどんよりとした雲が空を覆い隠していて火が沈むのが早く、勝家含む織田軍一団は賤ヶ岳の入り口で夜を明かすこととなった。
寝支度を整えた兵らの後ろを、具足に甲冑姿の勝家はなるべく静かに通りすぎる。どうせ今宵も寝ずの番を申し付けられることは分かっていたから、不必要な争いを避けたつもりだった。それなのに目敏い上司は勝家の姿を認めてチクチク嫌みを言ってくる。

(慣れたことだ……)

言い聞かせて、何も感じないよう心を閉じた。鍵をかけた。鍵は飲み込んだから、きっと今頃胃の腑の奥だ。
感情は込めないよう、何も悟らせないよう……そればかり考えながら、「畏まりました。」とだけ返事をした。うまくできたと思う。

ふと見上げると月が大層綺麗だった。猫の目のような細長い月。黒い雲がまとわりついている。
あの色は雨を含む雲の色だ。鋭い弧を描く月の先端から、今にもあの雲の水分が雫となって滴り落ちそう……だなんて馬鹿なことを考えて、勝家は一切の身動きを止めた。

ぴちょん

水音。まさか月から滴った雫の音ではあるまい。
耳を済ませば水音は更に聞こえてきた。

じゃっぱん
ざぶざぶざぶ

今度は随分と豪快だ。
一応何者か確かめねばなるまいと思った。それが影法師に与えられた役割だ。木の枝の類いを踏まぬよう細心の注意を払い、足音を忍ばせて音源に忍び寄る。

茂みの中に顔を突っ込めば、向こう側には小さな湖があった。湧き出しているものなのか、流れ込む川はどこにも見当たらない。それにしては綺麗な水だと勝家は思った。
湖の真ん中には人影があった。
線が細い。
女性のものだ。
からだの前に二つ、まろい膨らみがある。

(あっ……)

ハッとして顔を背けた時には、瞼裏に艷姿がこびりついていた。
月明かりに浮かび上がる真っ白い肌。女性の一糸纏わぬ姿なんて目にするのは、たぶんこれが初めてだ。けれどからだの前についた勝家にはない膨らみ、あれが何だか分からないほど物知らずでもなかった。急にかっと頬が火照る。

「どなたですか」

鈴振り声に心の臓が縮み上がった。

「も、申し訳ありません。わ、わ、私は決して、怪しいものでは」

夜。美女の水浴びを覗く男。
不審者ではないとどの口で言うのか。

頬だけでなく身体中がかぁぁぁっと熱くなって、勝家は両の手で顔を覆った。

「み、見ておりません。いや、少しだけ、少しだけ見ました。でもすぐに目を反らしました。御勘弁を」
「構いません。それより貴方に聞きたいことが」

勝家の性格上、構わないはずないだろ!とはツッコめなかった。確かにそれと似たようなことを思ったはずなのに、口は鯉のようにぱくぱくと動くばかりで言葉のひとつも出てこない。
水音。
心の臓はまた震え上がった。姫君が顔を隠す御簾のように顔の前に掲げた手の指の隙間からほんの少しだけチラリと向こう側を窺ってみれば、限りなく白に近い肌色が二本、細長く伸びて池の水に突き刺さっている。……脚。

素っ裸の美女……いや、実は顔はまだよく見ていないのだけれど、たぶん美人だった。それも物凄い美人だ。勝家の想い人であるあの方も十分浮世離れしたお顔立ちをしているけれど、あの人の「恐ろしくなるほどの美しさ」とはまた別である。目の前の美女は、「神々しい美しさ」。
そんな美人が、す、素っ裸で直ぐ傍にいる。
勝家はぎゅうと目を瞑って目眩に堪えた。けれどやっぱり気になって恐る恐る薄目を開けてみれば、二本の脚は、すぐ其処に。


「う、うわぁぁぁ!」


悲鳴をあげてしまった。後ずさって、まだ水の中にいる彼女がせめて何かを羽織ってくれないかとたまたま指先を掠めたものを引っ付かんで突きつける。
触れたのは指先だけだったけれど、驚いて瞑っていたはずの目を見開いてしまうほどには素晴らしい肌触りの布だった。まるで雲か何かを紡いでつくったような、絹よりもっと繊細で優しい感触。色は薄い桃色で、月明かりを受けて仄かに発光している……発光?

「それはわたくしのものです。取ってくれて有り難う。」

女は湖を出た。
女の手は勝家を通りすぎ、勝家の右頬の近くに垂れ下がっていた衣を取った。頼り無いほど薄い衣を手慣れた風に纏うと、今度は左頬の近くに垂れ下がる帯に手を伸ばす。前が閉じられ、豊かな胸の膨らみが朝方の空の色をした衣ですっかり隠れてしまってから、ようやく勝家は息が出来るようになった。

女は最後に発光する羽衣を身に纏わせた。不思議な輝きは羽衣から衣へと伝染し、衣から女へと伝染した。今や女自身が薄く光っているように見える。

「あ……あなた、は……」

何者ですか、と問うた声は感動でひどく震えていた。だって答えなどとうに分かっている。

「わたくしは由仁といいます」
「由仁様は天女様ですか」
「天に住まう女を、地上では天女と申すのですね。如何にも。」

正真正銘の、天女。
天女……!

初めて会った人外のものはひどく美しく、お綺麗な声で勝家に名を問うた。
返す声が震える。

跪いた。

「柴田勝家と申します」
「柴田様。」

天女が私の名を呼んだ……!

「柴田様に訊きたいことがあります」
「何でしょう」
「わたくしは人間を身に地上へ降りてきたのですが、この辺りには人間が一人もおりませんでした。人間とは何処にいるものなのでしょう?」
「それは……やはり村や町ではないかと」
「むら」

恐れ多いとは思いつつ、近寄ってきてくれた天女様の御尊顔をゆっくりじっくり拝見した。
たっぷりとした睫毛。薄く色付いた唇。
やはり絶世の美女である。

「まち」

絶世の美女はいとけなく勝家の言葉を復唱した。手習いをする童のようだと思った。

「そこに行けば人間に会えますか」
「はい。」
「連れていって頂けますか」
「……申し訳ありませんが、それは難しい」
「どうして」
「私は織田軍の末席を汚させて頂いております身ゆえ。この身は自由ではないのです。」
「そうなのですか」

ふむふむと天女、由仁様は頷いた。

「柴田様はお優しいけれど、自由でない人間。では優しくない人間や、自由な人間もいますか」
「わ、私は優しくなど」
「いいえ。柴田様はお優しい。わたくしのことを気遣って、羽衣を取ってくださいました。」
「羽衣……」
「はい。それで、優しくない人間や、自由な人間もいますか」
「います。この世に生きる人間で、優しいと称されるような者はごく僅かかと。自由な人間は更に少数です。ほんの一握り、選ばれた者だけが、自由を手に入れられるのです。」
「それでしたら、わたくしは運が良い」

そこではじめて、勝家の前で天女は微笑んだ。

「地上に降りてきてはじめて出会った人間が、柴田様のようにお優しい御方でよかった。」

ぐらりと目眩がしたが、跪いていたお蔭で倒れることはなかった。
(いや……私にはあのお方が)
愛しい人を思い浮かべる。真っ直ぐな黒髪。真っ白の肌。尾張一美しい、彼の魔王の妹君。
雨の日、わざわざ濡れに庭に出ているのを見るのが好きだった。離れに迷い込んだ猫と戯れているのを見るのが好きだった。お見かけする度憂いを帯びた顔をしている彼女が好きだった。

話したことは一度もないままに、他の人のものになった。

「勝家様?」

は、と気付けば天女の御尊顔が目の前にあって、失礼とは承知しつつもぐいと押して遠ざけた。

「てててて、天女様」
「由仁」
「由仁様。好きでもない男にそんなに顔を近づけるものではありませんっ」
「すきでもないおとこにそんなにかおをちかづけるものではありません」

押し返す勝家を気にもせずに鸚鵡返しして、天女は白い頬を興奮で赤く染めた。

「有難う存じます、柴田様。貴方のお蔭で、わたくしはまたひとつ地上を知れました」
「……天女様は、」
「由仁。それとも地上では好きでない者の名は呼ばぬものですか」
「…………いいえ。由仁様は地上の者に興味がお有りなのですか」
「ええ、そう。だから降りてきたのです。上は詰まらなくて」

「詰まらない」。今度は勝家が繰り返す。
信じられなかった。

「柴田様、もうひとつ訊ねたいことがあるのですけれど、よろしいでしょうか?」
「は。私に答えられることなら、何なりと」
「これは何でしょう。先程から止まらぬのです」
「止まら……っ!」

息を呑んだ。

天女の雪のように白く蛍のように淡く光る細い指先から、だらだらと血が流れていた。

「ど、どうしたのですか、これはっ」
「さあ。先程岩を触ったらこのようになってしまって」
「痛くはないのですか」
「いたく?」

指先からだらだらと血を流す天女は、目を輝かせてそれを見た。

「『いたく』とはこの変な感じでしょうか。今までこんな変な感じになったことはありません。」
「……天には痛みは存在しないのですか」
「いたみ」
「はい。恐らく指先に感じられているでしょう感覚が痛み、その感覚を表すときは痛い、と言います。」
「痛い」
「はい。痛いですか」
「痛い。痛いです。ちくちくずきずきします」
「手当てをしましょう」
「どうしたらよいのですか」
「まずは血を止めなくては」
「ち。それはこの赤色の水ですか」
「天には血も存在しないのですか」
「初めて見ました。」
「……そうですか」

勝家は昔からあやかしの類いが好きだった。天女をそこに分類して良いのかと言われれば微妙なところではあるが、かけ離れているわけでもないだろう。それに「痛み」や「血」を知らないのなら、ますます人外のものと言える。
天女も天女で興奮しているようだったが、勝家も表情には出さずともかなり興奮していた。初めて遭遇した人の理の外のもの。それがこんなにも、うつくしいなんて。

(しかし……)

勝家は頭を下げた。

「申し訳ございません、天女様。」
「由仁」
「由仁様。由仁様の痛みをどうしてさしあげることもできません。私の任は夜間の見張りと周囲の警戒。曲者が居た際には、その討伐。負傷者の怪我の手当ては命じられておりません」
「柴田様はお優しいけれど、自由ではない人間なのですものね。それではわたくしが貴方と共に貴方の上司のところに行って、『てあて』の許可をもらったら、『てあて』はできますか」
「……確かにそれなら、構いませんが」

天女を軍の駐屯地に連れて行くというのは、あまり良い案ではないように思われた。まずどうやって天女と信じてもらうかが問題だ。織田に危害を加えないことも説明しなくてはならないし……

「では行きましょう」

そう言うと天女はふわりと浮き上がる。
勝家は呆気にとられるしかなかった。






織田軍は案の定蜂の巣をつついたような騒ぎになった。命には基本忠実なはずの勝家が夜警を命じられ、女を連れて帰ってきたのだ。それも如何にも浮き世場馴れした美人を。それだけでも大いに騒ぐに値するのに、女は天女であると来た。織田軍の武将らも正直何から問題視すればいいのか分からない。
とりあえず鼻の下はでろんと情けなく伸ばした。
美人である。

「それで、この女が天女であるというのはまことか?」
「は。この目で、由仁様が宙に浮かぶのを見まして御座います。」
「女、出来るか?」
「ええ。」

要望に応えて、ふわり、由仁は浮かんだ。柔らかな素材でできた衣の裾が持ち上がったのに合わせて、取り囲んでいた兵達の姿勢が若干低くなる。残念ながら白い内股はほんの少しも見えなかった。
真下にいた勝家にはちょっと見えた。


「う、ううむ。しかしこれだけで信じるわけには……空を飛べるものは少なからず存在する。勝家、おまえも飛べただろう」
「多少は。由仁様のそれと比べれば、ほんの雛鳥程度では御座いますが」
「この娘が風の婆娑羅者でない証拠がどこにある」
「……では、光輝く羽衣は」
「光の婆娑羅者でない証拠がどこにある」
「婆娑羅とは一人にひとつの属性として宿るもの。仮に一方が婆娑羅としても、不可解な力がひとつ残りまする」
「それは……そうだが」

部隊長は天女の処遇を決めかねていた。
いい流れだ、と思う。

我らは織田軍。我らは信長様の手であり、足であり、

「……娘は連れ帰り、殿の指示を仰ぐとしよう。」

考える頭ではないのである。





こうして由仁は勝家ら織田尖兵隊に同行することとなった。
天女と言えども飛ぶのは疲れると言うので勝家の馬に乗せてやったら、あれは何ですかこれは何ですかそれは何ですかとまことこどものようである。白い指先が指し示す方を見て、やれあれは獣避けの柵で畑を守っているのだとか、これが村ですだとか、それは鐙と言って馬に乗りやすいように付けるのだとか懇切丁寧に説明してやるのはなかなかに胸が踊る経験だった。


「柴田様。これから会う御方はどのような方ですか」
「信長様は……第六天魔王、と呼ばれております」
「魔王?」

訝しげに眉を寄せた由仁を見て、天女相手に魔王もなかったなと思う。

「そう呼ばれているだけで、根の国出身というわけではありません」
「なるほど。魔王のような方なのですか」
「魔王のように恐ろしく、強く、唯一なる御方です」

そうなのですか、と呟いて、由仁は勝家の胸の前で小さくなった。

「む、胸のこの、この辺りが、きゅうと縮んでいる感じが致します。これはなんでしょう」

緊張しているのか、それとも恐怖しているのか。ものを知らない由仁の曖昧な説明では断言できなかったけれど、細く長い白魚の指がいとけなく勝家のことを頼りにしている様は視覚的にとても気持ちが良く、あいらしかった。



仄かに光輝く、腕の中の天女。






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(151106)




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