「次はそなたが鬼じゃ」
幼い姫が言う。
ああよかったと佐助は思う。
姫が探しに来ないとどうにもできない逃げ役よりも、鬼の方が手加減がしやすい。
「十を十回数えたらさがしにおいで」
十を十回、というのは、まだ百まで数えられない姫様の最近の口癖だった。たくさん、という意味らしい。姫にとって一番大きな数が「十」であるので、「十を十回」は姫の中では一番大きな数ということになる。
忍者とは耐え忍ぶもの。百数えるどころかそれが千でも万でも佐助には何の苦もないが、問題は隠れている姫様が二回目の「十を十回」を数えきるまで探し出さずにいると、寂しさに負けてぐずり出すことだった。
「みーっつ、よーっつ」
姫様は小さなあんよをパタパタと動かして去っていった。
「やーっつ、ここのーつ、とおー」
この間は厨。その前はお館様の背の後ろ。
さて今度はどこだろうと考えながら数を数える。
十までいったらまた一へ。
「ひとーつ、ふたーつ、みーっつ」
佐助の任務は『由仁姫様を守ること』だったから、狡いとは思いつつも忍びの聴覚を駆使して遠く離れた姫様の気配を追った。教わったときには隠れ鬼に使うことになるとは思っていなかった忍びの技もちょっと使って探っていると、ザッと何かが擦れる音を耳が捉える。
(……おいおいまさか)
がさがさと葉擦れの音まで聞こえてきて、佐助は冗談じゃないぞと伏せていた顔を上げた。
地面を蹴ってその場から姿を消す。まだ十を四回しか数えてないけれど致し方ない。
文字通り建物の陰に隠れた状態で様子を伺ってみれば、姫様は案の定庭の木によじ登ろうとしていた。綺麗なおべべの裾を大胆にたくしあげているせいで、鶏ガラみたいに細い足が露になっている。
頭の隅では数を数え続ける。
由仁姫は高いところが好きだ、という話は聞いたことがあった。なんでもはじめておなごと引き合わされて話題に困った弁丸様が苦し紛れに木登りを教えたらしい。弁丸様本人から聞いた。
やんちゃ盛りの弁丸様は木登りのコツを伝授して差し上げたのだと自慢気だったが、どうやらどんな木が木登りに適しているのかは教え忘れたようだ。
姫様がよじ登ろうとしているのはまだまだ若い先細りの木。
いつ落ちるかとハラハラしながら見守っていたら、ついに姫様の生っ白い御御足が踏みつけた細枝が折れた。あんな小さな姫様の体重すら支えられないなんて軟弱な枝だ。俺様なら片手でイケるね、と姫様の落下点に影のまま滑り込んで、飛び出し様に受け止めてやった。
片手でイケると思ったけれど、それはやっぱり無理だったから結局両手で捕まえる。姫様が弁丸様くらい小さかったら絶対イケた。絶対。
「何考えてんすか、ひぃ様。危ないですよ」
「さ、佐助」
由仁姫は佐助のうでの中で、扇みたいなまつげをぱたぱたした。
受け止めた姫様のどこもかしこも柔らかい体はかちこちに強張っていたから、横抱きのまま地面に座り込んで片手をあける。左側には姫様の頭があるから、あけたのは右手。つきたてのお餅のような白い頬を、柔らかく戻れ柔らかく戻れとむにむに揉んだ。
「び、びっくりした」
「こっちの台詞ですよ〜それ。俺様が間に合ってなかったらどうするつもりだったんです」
「でも、佐助は間に合うた。さすが佐助じゃ」
笑う少女が小憎たらしい。
「……もう。やめてくださいよ。心の臓止まるかと思ったんですから」
「それはこまる。佐助が死んだらわらわはだれとかくれ鬼をすればよい」
「隠れ鬼の心配かよ〜。あ、途中で数えるのやめちまいましたけど、特例ってことで許してくださいね」
心の中で「あと触っちまったこともご容赦願います」と付け加えた。
由仁は姫で、佐助は忍びだ。直接触れ合ったりなんかした日には、本来ならば三月は折檻される。
佐助なんか比べるのも烏滸がましいほどやんごとない身分のオヒメサマは、佐助の上から退かずにくすくすと笑っていた。
「うむ。許そう。というより、わらわはそちのおかげで助かったのじゃ。何かほうびを取らせねばな」
尊大に言うけれど、姫は姫でも末姫だ。その上まだこどもの由仁姫が褒美というような褒美を与えられるはずもなく、ここは無難に「ひぃ様がお好きな花をひとつ摘んでください」とか、「今度弁丸様に無理矢理殴り愛に参加させられそうになったらひぃ様のお部屋で匿ってください」とか言った方が良いのだろうか……と思ったところで、左の頬に何か柔らかいものがふにと当たった。
「ふに」は温かい。
佐助はその「ふに」が、信玄公の大切な大切な末娘のくちびるだと気付くのに十を一回数えるくらいの時間を要した。
「……え」
「佐助。今はいくつ」
「えっ?えっと……十が九回と、四」
「ふむ」
由仁姫は年に似合わぬ難しい顔をして立ち上がった。小さな顎に手を当てて、いかにも考えている風だ。
何を考えているのかといぶかしんだ佐助に、姫はあっけらかんと言う。
「佐助の嫁御になるためには、十をあと何回数えればよいのかの?」
由仁は姫で、佐助は忍び。
由仁が佐助のもとへ嫁ぐ日なんて永遠に来るはずがないのだけれど、十を百回、千回、万回、億回、兆回数えても足りないと言ったところでこの幼姫には伝わらないのだろう。
「……十回じゃ、全然足りませんよ」
「そうか。では百までおぼえることとしよう。」
「そうしてください。」
バカだ、と思った。
忍びごときにこんなにも心を砕いてくれる武田の在り方も、忍びを側に付けて大切にする若様も、忍びを遊び相手だと思っているひぃ様も。バカだ。バカでバカで、もうどうしようもないくらいバカで、救いようのないバカだ。
早速手習いじゃ、ときびすを返した由仁様の背中を見送りながら、佐助は「バカだ……」と呟いた。
一番バカなのは、この世で一番大きな数字を十だと思っているようなお子様に、不覚にもときめいた自分である。
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(150904)
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