白に染まった世界が、薄く色づいた。凍えるような外気は包み込むような暖かさに、肌を突き刺す風は穏やかに流れるものへと変わった。
神楽はまだ満開ではない桜をつけた樹の枝に腰を下ろしていた。花びらが舞い散っている。春は別に好きではないが、桜は好ましいものであった。
けれど満開の桜は好きではなかった。もうあとは散るしかないからだ。
もしかしたら、自分に重ね合わせていたのかもしれない。短い命とわかっている自分に。
だが自分が、桜の花のように美しいとは思えない。自分は奈落から生まれた汚らわしい妖怪でしかない。自分の周りは憎しみで満ちている。自分を恨む者なら数えきれないほどいるはずだ。いくら冷酷な妖怪であるとはいえ、憎しみや怒り、恨みのこもった視線を向けられるのは嫌だと思っている。が、それは仕方の無いことなのだ。奈落から生まれた、自分の運命なのだから。その境遇を、悲しいと思うのに、涙も出ない。
強大な妖力が辺りを包んだ。こんな妖気を纏う人物を、神楽は一人しか知らない。
やがて見えてきた殺生丸は、まっすぐに前方を見ている。気配に敏感な殺生丸のことだから、こちらに気付いていないはずはない。迂回しようと思えば出来ただろうに、それでもこちらを通って行こうとしているのは何故だろうか。
何処へ、行くのだろうか。
降って湧いた興味を、頭から払い除けた。
例え聞いたとしても、殺生丸が答えるはずがないことはわかっている。
神楽が座る真下より少し手前で、殺生丸は足を止めた。
「…何をしている」
「…別に何も。奈落の差し金でも何でもねぇよ、今日は」
あんたこそ、と続けようとして何故だか声が詰まった。緊張しているような気分がわき上がってくる。初めて、殺生丸を見下ろしているからだろうか。こくり、と唾を飲み込んで息を吸った。
「…あんたこそ、こんなとこで、一人で何してんだよ」
そう問えば、殺生丸は目を細めて不愉快そうに口を開いた。
「…答える義理はない」
やっぱりな、と思った。所詮敵同士だ。
とはいえ、いくつかわからないことがある。先程から殺生丸は何時にも増して不愉快そうだ。そして、殺生丸から微かに漂ってくる獣の匂い。何らかの妖怪の匂いだろう。
「…なんか殺してきたのか。あんたから獣の匂いがするぜ」
そう言えば、殺生丸は更に不愉快そうに眉根を寄せた。
「けど殺しただけじゃそんなに匂いは付かねぇだろう。あんたらしくもなく、手こずったのかい」
いつもの調子が戻ってきた。相手を挑発するような自分の言葉が戻ってきた。これに動じないのは殺生丸くらいだ。
なのに。
「…違う」
いつもは無視でもされそうなものなのに、今日はきちんと答えている。それに興味が湧いて、樹から殺生丸の目の前に飛び降りた。この位置の方がしっくりくる。
そこで気付く。
襟元に覗く、簪に。
目を見張った。
もしや、殺生丸は誰かに届けに行くのではないだろうか。好いた女に、その簪を贈るつもりなのではないか。
樹から下りたことを後悔した。下りなければ、それに気付くこともなかったのに。
神楽の視線が簪向いていることに気付いた殺生丸は、それを襟元から引き抜いた。
「…お前でもこのようなものに興味があるのか」
からかいを含んだような声音でそう言われ、恥ずかしくなった。
「違ぇよ!…あんたにもそういうのをやる女がいるんだなって思っただけだ」
そう言えば、殺生丸は首を僅かに傾げて口を開いた。
「…何を勘繰っている。これは執拗に迫ってきた男か女かもわからぬ獣の妖怪が無理矢理寄越したものだ」
だから殺した、と言外に述べて。
不意に可笑しさが神楽を包んだ。簪を寄越した?殺生丸に?
表情に表れたのか、殺生丸は怪訝そうに眉を寄せた。
「…何がおかしい」
「いや、何であんたなんかに簪を贈るんだよ。もしかしてその妖怪、あんたを女と勘違いしたんじゃねぇの?」
堪えられなかった。神楽は遂に吹き出してしまった。そのまま堪えながらも笑い声が洩れる。神楽のその様子を不機嫌そうに見やり、殺生丸は足を踏み出した。
距離が縮み、次いで視界が白で覆われたことに神楽は驚いた。髪に殺生丸の手があることを認め、直後に殺生丸はそのまま神楽の横をすり抜けていった。
「…なっ…、何をした!?」
振り返った拍子に自分の頭から、しゃらん、と音がした。それは先程まで殺生丸が襟元に挿していた薄紅色の桜の花を型どった簪。垂れた二本の糸の先に、綺麗な珠が付いていて、それが揺れてしゃらんと音が鳴る。
反射的に過ぎていった殺生丸を見た。既にその背は遠い。
「…っ殺生丸!」
張り上げた声にその足は止まり、こちらを振り返る。
「…私には不要な物だ」
そう言って踵を返した。
神楽はもう呼び止めなかった。それだけで十分だった。
要らないからだけれど、あの殺生丸が自分に物をくれたことが、そして僅かではあるが、髪に触れたことが、簪を挿してくれたことが、嬉しくて。
桜舞い散る中を歩むその後ろ姿を、神楽は何時までも見つめていた。
桜