「かぐら」
そう、彼に吐息の合間に囁かれるだけで。
あたしの孤独は消されてしまう。
はじまりはいつも唐突。
たまたまお互い1人で、出会すとき。
人も妖怪の気配もないところにいたとき。
待っているかのように彼が1人でいるとき。
逆にあたしが待っているとき。
月の綺麗なとき。
日がまだ空に残っているとき。
雨が降りしきっているとき。
昼夜も関係ない、天候も関係ない。
あたしの感情も関係ない。
ただ彼が、あたしを求めるとき。
この肌の交わりがはじまるのだ。
あたしの感情は関係ない。
なぜならいつでも、求めているから。
憧憬の想いが、いつしか変わったことに気づいたのは。
あの、肌が初めて触れ合った日、その瞬間だった。
複雑すぎる感情で、難しくて何もわからない。
ただ、逢えない日は孤独を感じるようになった。
奈落から心臓を奪い返すためにただがむしゃらに生きていた。
他に何も考えなかった。
それだけが、あたしの生きていく力の源だった。
なのに。
殺生丸と肌を重ねてから、変わってしまった。
殺生丸が、欲しくなった。
殺生丸の、心が。
それは、心臓を手に入れることより難しく思う。
心臓を手に入れる、すなわち奈落を倒す。
目的とすべきことが明白なこの願いは、あたしを動かすことができる。
でも、心を手に入れるには何をすべきかわからない。
肌を重ねても、殺生丸の心はわからない。見えてはこない。
もともとわからなかった彼の心が、もっと遠く感じるようになった。
何をしたらいいのか、わからない。
だから諦めた。
諦めて、少し泣いた。
雨の夜、彼と眠ったそのあとに。
傷む心はどうやっても消せない。
逢わなければいいという考えもあった。
でも、それはできなかった。
殺生丸と抱き合うときだけ、現実を見なくていい。
自分を騙すことができる。
殺生丸だけを、見ていられる。
彼と肌を重ねた夜から、1人が、淋しい。
殺生丸を見つけたとき。殺生丸の手が触れたとき。唇が重ねられたとき。抱き合うとき。名前を、囁かれたとき。
それだけで、逢えなかった孤独が掻き消される。
あたしは、堕ちたのだ。
彼の心を求めて、あたしの想いを確かめたくて、今日も彼に抱かれる。彼を、抱く。
この孤独も哀しみからも、あたしは逃れられないのだ。
彼を思う限り。
なんて、愚か。
彼女が名前を呼んだのは、ただ1度。
不意に彼女の唇から洩れた「殺生丸」という、聞き慣れた自分の名前が。
全身に衝撃を走らせた。
彼女を抱いたのは、ただ女を欲したときにそこにいたから。
それだけだった。
だが彼女を抱いたあと、他の女では足りぬことに気づいた。
誰でも良いと思っていた、概念が変わった。
1度切りの関係を繰り返し、ただ雄としての本能を満たすための道具にすぎなかった。
歪んでいるのだろうか。
彼女でないと、熱くならないこの身体、心。
頑なに認めようとしなかった、彼女だけを欲するこの熱情。
だが、抱いた数日後に再び彼女に出逢ったとき、奥底から何かがこみ上げた。
神楽も1度切りと考えていたようだった。
再び神楽の身体を抱き寄せたとき、その瞬間。
紅い眸が見開かれた。
そうして思い知る、心に浮かんだ感情を。
求めていたことを。
繰り返す情交。
こんなのは初めてだった。
何故、と何度も考えた。
神楽が何度も私に抱かれる理由も、考えた。
答えは出なかった。
出すのを恐れた。
答えを見つけてしまったら、戻れないとわかっていたから。
「………せっしょう、まる」
声が、洩れたその雨の夜。
終わりのあと、
神楽が涙を流していることに気づいた。
互いに背を向けた、気配で感じた。
気づかない、ふりをした。
神楽が泣いて、眠りについたあと。
暗闇の中で彼女に口付けた。
いつもより、近くで眠った。
それ以来、神楽は名前を呼ばなくなった。
それが彼女なりの線引きだったのかもしれない。
ならば、認めまい。
私が認めて仕舞えば崩れる、崩すことができるこの脆い関係を保つために。
彼女が名前を呼ばなくなった代わりに、名前を囁いた。
「神楽」と。
囁き続けた。
欲を満たすために始めたこれが続くごとに、渇きは強まるばかりということに気づいていた。
次第に渇く心を潤す術は、なかった。
だが渇きを深める行為は止められなかった。
気づいたとき、もう後戻りはできなかったのだ。
本当はわかっていたのだ。
神楽でないと駄目だと自覚したとき。
神楽を初めて抱いた、抱きしめたそのときに。
彼女を抱いたのは、ただ女を欲したときにそこにいたから。
そんなことは、嘘だったことを。
わかっていた。
本当は変えたかった。
この変わりばえしない、不毛な関係を。
だから、「神楽」と囁き続けた。
いつか私の名を洩らすことを期待してしまったから。
愚かだ、と思う。
愚かな、と自身を見下げる。
私に抱かれる彼女もまた。
愚かな女だ。