月の砂
「――ねえ、聞いたー?高槻先生の噂!」

珍しくきちんと朝から授業を受けて、所属する教室の自分の席に着いて、大人しくしていたときに、不意に聞こえたその言葉。何故か雑用を押し付けられ、その代わりに静かな空間を提供してくれるあの教師の名前だけが耳に入ってきた。噂とは何だろうか。もし自分とのことであれば、気を付けなければいけないし、もし恥ずかしいような噂だったなら、それをネタにからかうのも手である。いずれにせよ、聞いておくに越したことはない、と、耳をそばだてた。

「何、どんな?」

「高槻先生が結婚するって噂」

――結婚…――

その言葉を聞いて、思考が一瞬止まった。何で、何で。どうして。結婚なんて聞いてない。何で云ってくれないのだろう。どうしていきなり結婚なんて。
まだ、想いも告げていないのに。
そこまで考えて、ハッと我に返った。慌てて、想いを告げるなんていう馬鹿げた思考を追い払う。好きだと云ったところで、まさか受け入れてくれるはずがない。ただの生徒で、そこらの乙女な女子生徒とは違うから、傍に置いておいてもらえているのに。告白なんてしてしまったら、きっと、あの教師はあたしを手放すだろう。それはどうしても避けたかった。女として見られていなくても全然構わないから、それでも傍にいたかった。
だから、自分でそう思っていたから、結婚のことを知った途端に、想いを告げたいと思ってしまった自分の思考回路がよく分からなかった。

思い悩んでいると、不意に廊下が騒がしくなった。

「高槻先生!」

自分には到底出せないような高くて甘えたような声でそう叫んだ廊下の女子は、噂の渦中のその教師の許へと駆け出した。紅はその様子をぼんやりと見つめ、玲の表情を見て、あれは「煩い」と思っているな、と予感した。

「先生、ご結婚なさるって、ホントですか?」

すると、それまで無反応だった玲が僅かに反応を示した。女子生徒の方を向いたのだ。視線を向けられたその生徒は、頬を赤く染めて上目遣いで玲を見上げている。女という特権を大いに活かしている彼女を見て、紅は本当に、心の底から感心した。玲もあのような女の方が良いのだろうか。

「…その話をどこで聞いた」

「えっと、理事長が話しているのを聞いてしまって…」

「他に知っていることは?」

「他は何も…相手はどんな女の人なんですか?」

普段無口な玲が、自分と喋っているという事実が相当嬉しいらしく、その女子生徒は嬉々として玲に話しかけ続ける。
相手はどんな女か、と問われた辺りから、次第に玲の表情に煩わしさが滲み出てきた。玲が女子生徒から視線を外した時、何気なくその眸があたしを捕らえた。目が合ってしまったことに驚きと焦りが入り混じる。それでも視線は外せなかった。あたふたしているのが分かったのか、玲が本当に微かな笑みを浮かべたからだ。玲の周りの女子から、教室にいる女子までが俄に色めき立った。
その隙に、玲は歩みを止めてしまった足を再び動かして、颯爽とその場から離れていった。玲の後ろ姿が小さくなってから、玲を囲んでいた女子生徒たちはきゃあきゃあと黄色い声で騒ぎ出す。その声に耳を塞ぎたくなっていると、不意にどこからか自分の名前が聞こえた気がした。

「高槻先生、本当に結婚すんのかなあ…」

「そうなんじゃないの?違うって云ってないし」

「じゃあ徳永さんとデキてるっていうのは嘘?」

「嘘じゃん?徳永さん可哀想。勘違いでいじめられてさ」

「しょうがなくない?確かによく一緒にいたし」

その会話を聞いて、先程とは違う意味で耳を塞ぎたくなった。
どうしてだろうか、陰湿ないじめを引き起こす理由がなくなったことに、安堵しつつも、同時に虚しい気持ちになっているのは。

そんなこと、もう分かっていた。
どうして、なんて自分に問いかける必要もなかった。

玲のことが、好きだからだ。

玲と恋愛関係にあるのでは、と勘違いされることが、本当は嬉しかったのだ。先生と生徒という境界線を越えて、ただの男と女として周りから見られているという喜びが、いじめによるマイナスな部分よりも勝っていたからなのだ。本人は、あたしのことをそんな風には見ていないのに。
この場にいることが苦痛になって、席を立つ。折角今日は全ての授業に出ようかと思っていたけれど。
教室を出て、それから何時もなら玲の部屋に行くのだが、行けない。行きたくない。どこへ行こうという意思は持っていなかったが、足は勝手にどんどん玲の部屋の方向から離れていく。辿り着いたのは屋上だった。

そこにいたのは、玲だった。




何ていう有りがちな展開なんだろう、と思った。ただ、普通と違うのはあたしたちの立場が生徒同士ではなくて、教師と生徒であること。その有りがちな展開通りでいくのなら、屋上にいた者は来た者を待っていて、告白して見事付き合う、という展開になるのだろう。
しかし、自分達の場合はそれは決して当てはまらない、と思った。
玲はフェンスにもたれ掛かり、煙草をふかしていた。どう見ても煙草を吸いに屋上に来ただけで、あたしを待っていたわけではないのだ。何故屋上で煙草を吸っているのかというと、それはあたしのためなのだろう。あたしが煙草を嫌いだから。そういう無意識な優しさが嬉しい。
けれど辛くて堪らない。
ただ冷たいだけの人じゃなくて、優しい時もあるし、人を気遣えるんだと分かってしまったから。そういう面が、たまに見えてしまうから、だから、どうしようもなく好きになってしまった。想いの行き場所を無くしたから、辛くて堪らないのだ。

「…サボりか」

「…」

「珍しく教室にいると思ったら、結局はいつもと一緒か」

そう云って少し馬鹿にしたように笑う玲に、何も反応できなかった。ただ俯いていた。そんなあたしを不思議に思ったのか、玲の気配がこちらに近付いてくるのが分かった。煙草の直接的な匂いはしないから、恐らく火を消したのだろう。そういう優しさが、辛いのに。

「…どうした」

「…別に、何も」

素っ気ない口調で云うと、玲は溜め息を吐いてあたしの頭に手を置いた。そうしてそのままぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜられた。乱暴にだが、撫でるみたいなその手の動きに、あたしは鼻の奥がツンと痛くなった。

「…云いたくないのならそれでいい」

そう云って、玲の手が離れた。
頭の上の重みがなくなった。
頭にあったぬくもりが急に消えた。
あたしを見つめていてくれた眼差しが、他へ向いた。
前にいた玲が、あたしの横を通り過ぎて、出ていこうとする。
独りになる。

「――っ!」

耐えられなくなって、振り返って玲の手を掴んだ。こちらを振り返った玲は、僅かに驚いていた。顔が意外に近くにあって、どうすればいいか分からなくなって、思わず視線を逸らした。

「…どうした、徳永」

その心配を含んだ声音は、教師のもので、あたしは何だか分からない内に、掴んだ手を振り払っていた。

「…っ、そんな風に、あたしを心配すんじゃねえ!」

「…」

噫、これはまずい、と思った。このままの勢いに任せてしまうと、口を滑らせそうだ、と直感した。けれど、動き出した口は止まらなかった。

「そんな風に、教師みたいに、あたしに接してこなかっただろうが!」

「…」

「今更そんな立場を分からせるような態度…」

「…徳永…」

「そんな態度、今更取るんなら、何で…、何で最初からそうしなかったんだよ!」

「…徳永」

「そしたら、あんたのことなんか好きになんなかったのに!」

云ってしまった。否、漸く云えた。もう限界だったみたいだ。想いを隠しているのも、その状態で玲と接するのも。
散々叫んで、そうして沈黙が訪れた。その静寂を破ったのは、玲だった。

「…はぁ…」

「…なっ…!」

思い切り溜め息を吐かれて、そんな反応は全く予想してなくて、少しは動揺してくれても良いはずなのに、こんな時でも一人平然としている玲に、苛立ちを隠せなかった。しかし、あたしが何かを云う前に、玲が口を開いた。

「…知ってた」

「……え」

「お前が俺に対して、どう思っているかを、知っていた」

「…」

驚きもあるが、やはり気付かれていたんだ、とも思った。けれど、気付いていながら、あたしを傍に置いていた玲か、よく分からなかった。生徒だからと遠ざけるなら、そうしてくれれば良かったのに。

「…お前が云った言葉、今は受け取れない」

「…分かってるよ」

「…そうか」

「結婚すんだろ。おめでと」

「…」

「だから今云ったことは、わすれ…」

忘れてくれて構わない、と、そう云うつもりだったが、肩を強く押されて、フェンスに躯を押し付けられたため、言葉を紡げなかった。

「俺が云ったこと、理解したか?」

「…だから、」

「俺は、今は、受け取れない、と云った」

分からせるように単語を区切って、強調する。それについ期待したくなって、けれど期待なんてしてはいけないと、打ち消すように、聞き返す。

「…どういう、意味」

「…こんなに早く、云うつもりではなかったが…」

仕方がないな、と溜め息混じりに云うと、玲は一度あたしから視線を外した後に、もう一度あたしの目をみつめた。

「…お前が卒業したら、結婚しよう」

「……な、…え?」

「俺も、好きだ」

真摯な眼差しに射竦められて、その言葉の意味を漸く還元できて、全身が心臓になったかのように、鼓動が煩かった。玲にも聞こえそうなくらいだった。

「…どう、して…さっきは、」

「理事長に話していたのは、お前のことだ」

ここの理事長は、俺の父だからな、という衝撃的な言葉を聞いて、あたしは絶句した。ていうか何で知らなかったんだ、あたしは。

「…」

呆然としていると、玲は掴んでいたあたしの肩を離した。それから驚いたことに、そのまま踵を返して屋上から出て行こうとする。話は済んだ、と云わんばかりのその態度に、慌てて玲の名を呼んで引き止めた。

「…何だ」

「え…いや、何だ、って…」

もっと他にないのか。仮にも告白して、されて、プロポーズまでされたというのに。あたしの思いを汲み取ったのか、玲は溜め息を吐いた。

「…卒業したら、その時は」

お前を拐う。

不敵な笑みを浮かべつつそう云って、玲は今度こそ、屋上から出て行った。

バタン、と扉が閉まった音が響いて、それと同時に、その場にへたりこんだ。

想いが通じ合っていたなんて、奇跡みたいだ。
嬉しくて堪らない。
どうしよう、今は絶対に、人前には出られないくらい緩んだ顔をしているはずだ。好きな人が、自分を同じ気持ちで見てくれていることが、こんなにも嬉しくて、幸せなことだとは思わなかった。


後1年という期間が、酷く長く感じた、高校2年の3月。




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