衝動に駆られるままに抱き合ったあの夜の後、いつの間にか紅はいなかった。ずっと冷たかったベッドが、紅の温もりを残すように中途半端に暖かくて、それによって一層虚しさが募った。
ダイニングに行くと、テーブルには簡単な朝食と、手紙が置いてあった。
ただ、ありがとう、とだけ書かれていた。
謝罪の言葉でなかったことに驚いた。あんな風になってしまったことを、紅は詫びるのだろうと思っていたのに。だが驚きと同時に、期待も込み上げた。紅は後悔していないかもしれないと、そう思えて仕方がなかった。
それから1週間が経ち、私はいてもたってもいられなかったが、必死で自分の熱情を抑えた。これで再び連絡を取ってしまえば、また同じことを繰り返してしまう。自分とは違って家庭がある紅を、自分の許に堕落させたくはなかった。
そう思っていたのに、紅から連絡が来た。もう一度会って欲しい。それだけ書かれたメールを見て、私がどれほど高揚したか。学生時代の自分達には無縁だった、まるで恋の駆け引きのような状況に、ひどく心が高ぶったのだ。
お決まりとなっていたバーのカウンターで、紅はカクテルを飲んでいた。彼女は36歳のはずだが、端から見れば、20代後半くらいに見えなくもない。手元に視線を落とし、長い睫毛が頬に影をつくっている。物憂げだが、それがより一層彼女を美しくさせている。気のせいなのかもしれないが、この前逢ったときよりも、はるかに綺麗で、若返ったように思えた。
自分を見つめる視線に気付いた紅は、私の姿を認めると、黙って左隣のスツールを少し後ろに引いた。私は無言でそこに腰掛け、やって来たバーテンダーに注文し、そうして沈黙が落ちる。
いつもなら傍目から見ても、それなりに仲良さげに話している筈の私たちを訝しげに見つつ、バーテンダーは私の前にスティンガーを置いた。グラスを傾けて一口飲むと、ピリリと刺激的な味がした。
「……それ、旨い?」
やがて紅が発したのは、そんなことで、少し拍子抜けする。
「…飲むか?」
そう問うと、紅はただ首を振って視線を手元に戻した。
「…この間のことなら気にするな」
そう玲が云うと、ハッとした空気になった。紅がじっと私を見つめるのが分かる。しかし敢えて、そちらを見なかった。
「…俺はもう1人のようなものだが、お前は違う」
「…」
「お前が無かったことにしたいなら、俺はそれでいい。元の友人関係に戻ろう」
「…」
私が何を云っても、紅は終始無言だった。私の話が一段落つくと、紅はカクテルグラスを煽り、グラスを空にした。そうしてバーテンと目を合わせる。
「…シェリーを」
頷くバーテンを尻目に、私は驚きで目を見張った。
「…お前…」
「……何?」
「意味を分かっているのか?」
「分かってるよ。昔あんたが教えただろ」
「…どういうつもりだ?」
そう問うと、紅は漸く私の方を向き、私の足にそっと手を置いた。私の耳元に唇を寄せ、彼女自身の甘く官能的な香りとアルコールの香りが鼻腔をくすぐる。
「…今夜あんたと寝てもいい」
そのことがあってから、私と紅の所謂不倫関係が始まったのだ。
彼女との日々は、私にとっては心の安らぎだった。彼女と結ばれるべきであったと痛感し、そしてそれは彼女も同様に思っているようだった。
紅とのセックスは今まで経験してきたものとは格段に違った。学生時代の紅はどこか頑なで、初々しいのもあったが、それほどセックスに悦びを感じていないようだった。だが大人になった紅は、以前よりも性に対して奔放で、悦びを感じて大胆に表現し、そして男を悦ばせる術を知っていた。それを考えるとき、恐らく彼女に性の悦びを教えたであろう彼女の夫に、決まって嫉妬心を抱くのだ。本当なら自分が彼女のそういった面を引き出したかった。そうして女として成長してゆく彼女を、傍で見ていたかった。
だが他の男の手によって変わった紅を、玲は学生時代と同じくらい、いやそれ以上に、ただひたすら愛していた。
この関係は、3年余りに及んで続いた。その終わりは、始まりと同じように唐突なものだった。