眼球を失った俺は、野菜炒めのかけらがつまった歯のすきまに指爪をねじ込みながら、ゆっくりと立ち上がった。「どうした」耳殻があつめた、抑えた低音に、風呂に入ってくる、と返答する。「・・・おい」低音は何か言葉を続けようとしたようだったが、俺はそのちいさな音を無視して階段へと駆け寄った。手すりをつかみ、ステップをスムーズに上る。肌に触れる冷たい空気に、鼻腔が、昨日まで感じることのなかった、俺のではない空気をかすかに感じ取る。煙草の臭いに交じった、雄の臭い。
「臨也!」
瞬間、真っ暗の世界に唇だけが浮かぶ。
リアルなようで3D映像のような口峡を、
聞こえなかったじゃすませないほどにボリュームの上がった声を、かきけすように、たどりついた脱衣所の扉を勢いよく閉めた。
盛大な溜息を吐いて、肌にまとった布を捨てる。
調子狂わせてくれるよ、まったく―――吐いた息に言葉を乗せながらそろりと一段下がった冷たい床に足裏を這わせ、いつもと変わらぬ位置に鎮座するノズルをきゅっとまわす。勢いよく体を濡らしていくつめたい水。ジャアア、とタイルを打つ音。水音がすべてを消してくれる。
指先で触れたノズルをさらにひねってゆけば、脱衣所の扉が控えめにきしんだ音も、心配そうに身じろぐような物音も、なにもかも現実にせずにいられる。





郷夢譚





バスタオルを握った片手で頭を拭き、もう片方で手すりを掴んで階段を下りる。はじめのうちは、慣れているはずのわずかな段差ですらまるで危うい足場で下山でもするかのようにただひたすらに怖かったような記憶もあるが、感覚を掴んでしまえば以前のような恐怖はほとんどなくなっていた。キッチンにたどり着き、コップに水を入れながら、かすかに人の気配を放つソファーのほうに顔だけを向ける。
表情のわからない、記憶の中の平和島静雄に向かって口を開いた。

「シズちゃんさぁ…いつまで、ここに居るの。池袋、帰んないの?」

脳内に浮かんだ平和島静雄のイメージはまるでモザイク加工されているかのようにぼんやりとしていて、髪はこんなに明るかったっけ、背はこんなに高かったっけ、なんて疑問がわくくらいにあやふやなものだった。
彼はどんなふうに口を開いたっけ。視力を失って、意識して脳に刻み付けない記憶というものはひどく曖昧なものだと知らされた。耳が音を拾い続けるたび、わずかに遅れて、揺れる平和島静雄が口を動かす。

「……そうだな」
「そうだな、じゃなくて」

はっきりとしない”平和島静雄”にいらいらして、空になったコップをシンクに置くときにわざと大きめの音を立てた。ガチャン、と陶器のぶつかるような音がしたのは、野菜炒めの盛られていた食器がつまれていたからであろう。音につられておもわず視線をやってからひどく嫌になる。見えもしない皿に目を向けてしまう癖はまだ直らない。

「タクシー呼ぶんなら駅にしてね。これ以上変な噂立てられたら仕事に支障が出るから、せめて帰るなら、「かえ、」

間髪いれずに響いた音はひどく小さくて、一瞬、聞き間違えたかと思った。けど、

「ら、…ねえ、し。……帰らねえから」

俺の反応を窺うかのように、滴るように落とされた音は、もう一度形を変えて強く俺の世界にこだました。それはおそらく聞き間違えでもなんでもなくて、俺の耳は至って正常に、発せられた音を拾ったに過ぎなかった。

「……そっか」


すこしの沈黙ののちに自分の口から出てきた言葉は、俺の発そうと思っていたものとは全く違う言葉で、まるで、他人が勝手に俺の口を借りてしゃべったかのように聞こえた。俺は「帰れ」というつもりだったのに。

「…いいのか?」


―――なにもよくない。
一人で定員いっぱいいっぱいだ。

これ以上なにもいらない。
この眼窩にこれ以上何も詰められない。自分のことだけでいっぱいだ。
俺は以前と変わらないでいたい。“折原臨也”でいたい。
俺の世界の、変わらない“平和島静雄”を保ちたい。
これ以上乱されたくないのに。

急に重力がかかったかのように重くなる足をどうにかひきずって、逃げるように視線を、体をそらす。

「………俺、寝る。ソファー、うん、ソファー…つかってくれて、かまわないから。あと…洗い物も。…そう、置いといて。いいよ。明日、波江さんにやってもらう…」

俺の口角はちゃんとあがっているのだろうか。
折原臨也らしく、不敵な笑みを浮かべているつもりで言葉を紡ぎながら、先ほど降りてきた階段に足を向ける。シズちゃんは、臨也、と言いかけたようだったがすぐに言葉を詰まらせ、音を飲み込んだようだった。

「なにか…何か、必要なもの。あったら、適当に、探して、適当に…使って。…俺は、もう、寝る から。なんか、疲れちゃったから。それに、明日…早いし、あの、仕事で」

こんなに言葉が出てこないのは初めてだった。言い淀んでしまうなんて、きっと、折原臨也らしくない。
ようやくたどり着いた手すりをしっかりつかみ、段差を少し早足でのぼる。一刻も早くこの場から逃げたかった。はやくしないと、しっかりと手で抑えていたはずの感情が、なみうってこぼれ出そうだった。

「…じゃあ、まあ……  おやすみ」

ようやく、シズちゃんが座っているだろうソファーの、ちょうど上部に位置する自室の扉の前にたどり着いた俺はすがるような思いでドアノブを掴んだ。

はやく、


「………すきなんだ、臨也」



はやく、にげたい。

パタン、と静かにドアが閉まり、俺とシズちゃんの間を隔ててくれる。


―――俺の耳はいやになるくらい優秀だ。

背後の閉ざされた扉がさみしくきしんだ音も、思わずその場にへたり込み、小さく身じろぐ俺の物音さえ逃がさない。
苦しいんだよ。
そう言わんばかりの、感情に彩られた声さえも。

「……無理だ」

広い部屋に響いた、聴きなれたはずの自分の声はひどく弱々しかった。

そう、無理だ。
無理なんだ。
俺は黙っておくつもりだった。
変わらず“折原臨也”を保っていたかった。
いやだった。失明を理由に、シズちゃんのバカみたいな優しさに付け込んで、好きになってもらっても嬉しくなかった。偽物の好意なんていらなかった。本物の好意でさえももういらないと思った。たとえ、もっとずっと前からシズちゃんが好意を抱いていたとしても、もはや俺の知らない世界のものでしかなかった。俺にとって変わることは恐怖でしかなかった。変化は俺の知らない世界での出来事だった。
変わらない“平和島静雄”でいてほしかった。
いやだった。変わってしまうのが嫌だった。俺の知らないシズちゃんがいやだった。唸るような声で臨也と叫んで、俺の事を憎くて憎くてしょうがないんだと言ってほしかった。俺が舞台から降りても、シズちゃんは変わらず毎日を過ごしてほしかった。たとえ、ずっと前から俺がシズちゃんの事を好きでも、俺の好きなシズちゃんで居続けてほしかった。今のシズちゃんはもはや俺の知らないシズちゃんでしかなかった。俺の記憶の中のシズちゃんはあの日で止まったままだった。

「もう…遅い」

自分の口から洩れ出た言葉なのに勝手に傷ついて、胸が押しつぶされそうだった。
もはやすべてが今更すぎた。何もかも、告げることは許されないと思った。
変わることなどできるはずもなかった。

もう無理だ。
もう、何もかもが遅い。

ないはずの眼窩に、水滴がどんどんたまって、あふれ落ちた。

全部、夢ならよかったのに。
水面のように揺れる黒い世界が映すのはいつもの池袋で、いつものバーテン服を着た、変わらない平和島静雄で、唸るように俺の名前を呼んで、

「シズちゃん」

いまになって、何気ない日常がひどくはかなく、ひどくいとしいと思った。



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