外はすっかり夜、らしい。 こんな状態では窓の外の明るさを確認することや、時計に表示される文字を見ることはできないが、その代わりに、視覚以外の感覚は以前よりもかなり研ぎ澄まされるようになったと思う。 触覚、聴覚、嗅覚に味覚。―視覚を欠いた、四つの感覚が夜の訪れを告げている。言葉ではうまく表現できないが、においだとか、温度だとかのかすかな違いがこの部屋に夜が訪れていることを告げていた。 シズちゃんは、俺を抱きしめるという意味不明な行動をした後、おとなしく来客用のソファーに座っていたようだ。そんなところに座っていても当然することもなく、相当手持ち無沙汰だろうとは思ったが、退屈ならここから出ていけばいいだけのことだし、俺としてもそっちのほうがありがたかったので特に何を話しかけるでもなく放っておいた。時折身じろぐような音がする以外は全くの無音で、しばしば本当にここにいるのかどうか疑ったりもしたが、彼はなぜかそういう時に限ってちいさな咳払いをした。 口峡譚 そうして、いつの間にか夜になった。 詳しい時間はわからないが、おそらく九時、いや、十時近いだろう。 以前はこんな時間まで仕事をすることなど稀だったのだが、視力を失い、効率が格段に下がったおかげでいわゆる「残業」のようなことをする羽目になった。今日とて、別に仕事量が増えたわけではなく、普段なら夕方には全て終わっているようなことをこんな時間までやっていたのだ。 時計を見るということがなくなったからか、時間が経つのがやたらと早く感じる。今日もあっという間に一日が終わってしまった。今日も閉ざされた瞼が開くことはなかった。 ちいさくため息を吐いて、パソコンをスリープにして立ち上がる。仕事を終えてしまうと、さっきまでおとなしくしていた腹の虫がうずきだした。昼から何も食べていないのだから、当たり前だ。 何か作ろうかとデスクチェアから滑り降りると、ごそりと何かが動く音がした。 「……飯か?」 「…へえ、起きてたんだ。あんまり静かだから寝てるのかと思った」 「飯か、って聞いてんだ」 「…飯、だけど」 「何食うんだ」 「何、って…」 矢継ぎ早に質問を浴びせる声は少し怒っているようにも聞こえた。勢いに押され、つい素直に「カップラーメンかな、」と言うと、奴の声の怒気はいっそう強まった。 「ああ?栄養とれねーだろ、そんなんじゃ」 「…は?関係ないだろ」 「おい、」 「シズちゃんは帰って自分の好きなもの食べれば」 「…臨也!」 まだ何か言いたそうな彼をリビングに残し、左手で壁を確認しながらキッチンに向かう。乾燥機に入れっぱなしのちいさな鍋を取り出そうと手を伸ばすと、手のひらは冷たいステンレスではなくほんのりとあたたかなものに触れた。先が五つに分かれたそれは伸ばした俺の手を包み込むようにしながらゆっくりと胸の高さまで下して、離れていった。「なにすんの」文句を言おうとした口は続く彼の言葉によって言葉を失う。 「…俺が作る」 「…は?、っわ!」 耳がその言葉を拾うや否や、俺の体は宙に浮いた。びっくりして足をバタバタさせてみるが、フローリングに触れることはなく空を切るばかりであった。上のほうからボソボソと独り言のような声が降ってくる。 「手前はよぉ…なんだ、おとなしく座って仕事でも…いや、仕事はするな。手前の仕事なんざろくなもんじゃねえからな。…ああ、テレビ…じゃねえ、音楽でも聞いてろ。そうだ、それがいい。そうしとけ」 「ちょっと、なに」 「いいか、台所に近づいたら殺す」 「なんなんだって言ってんの!つうか降ろせって!」 おそらく肩に担ぎあげられているのだろう、頭に血が上っているような感覚に加え、腰のあたりに腕があるのを感じる。落とされるかも、という不安はあまりなく、どんどんと背中をたたいた。 誰に見られているというわけでもないが、恥ずかしい。――というより、屈辱だ。 「降ろせって、言ってる、だろ!」 「うっせえな、暴れんな。言われなくてもソファー着いたら降ろしてやる」 「今すぐ降ろして、降ろせ!ふざけんな、自分で歩ける!」 言葉の節々からも、徐々に込められていく腕の力からも、奴のイライラが増していくのがわかる。 なのに、なんで、わざわざ。 なんでなんだよ。 以前彼が返した、その問いに対する答えはひたすら不快なものだった。「好きだ。」奴は問いに対する答えとして、そう吐いた―そう、告げたというよりも吐いたというほうが正しい。だってこれはあきらかな嘘だ。俺と奴のことを知る人間ならば、すぐにわかるだろう。俺と奴は出会ってから何年も、それこそ一分一秒時だって心を許すことなくいがみあってきた。俺はあいつが嫌いだし、あいつも俺が嫌いだった。憎んでいた。死ねばいいと、いつも思っていた。ほんの一週間前まで好きなどという言葉とは正反対の感情だけを抱いていたのに、いきなりベクトルが逆向きになるはずがない。俺を殺せばいい。もともと殺そうと思ってつけた傷なのだから、外して残念だけど失明してラッキーとでも思ってくれて、ひと思いに殺してくれればよかった。 「うっせえ!おとなしくしねえと――」 「『殺す』?」 ふいに口をついて出た言葉に反応するように、俺を担ぐ腕がピクリと動く。かすかに感じていた揺れがなくなったから、歩くのも止めたんだろう。 ドン、と静かになった背中を、つよく叩いた。にぎりこぶしはまるでコンクリートの壁を殴っているように痛かったが、かまわず、頑丈な背中をもういちど叩いた。 「…殺せばいいじゃん。…今だって、簡単じゃないか」 自分でも呆れるくらいに情けない声だった。 こぶしがじくじくと痛む。ぎゅうと握りしめれば伸びっぱなしの爪がてのひらにささった。 しばらくしてようやく動きを再開した長いからだがかすかな振動を伝える。数歩歩いたところで奴はまるで壊れ物を扱うように、俺の体をそっとやわらかいクッションの上に降ろした。また、指が絡めとられる。 「殺さねえ」 いつくしむようにてのひらに残った赤い爪痕を撫でながら、押し殺したような声で、一語一語、喉の奥から絞り出すように続ける。 「…手前が、殺してくれって言っても」 ……ほんと、なんでだよ。 俺が考え込んでるい間に、奴はさっさとキッチンへ移動してしまった。しばらくするとソファーにひとり取り残された俺の鼻孔が焦げ臭いを受け取る。それから半時ほどが経ち、食え、というぶっきらぼうな言葉とともに、正面のガラステーブルに食器の置かれる音がした。自分の分も用意したのだろう、少し離れたところでふたたびかちゃんという音がするとともにソファーがずしりと沈む。 以前は自ら料理することもあったが、こうなって以来、湯を沸かす以外の調理器具には触っていなかった。たまに波江さんが晩飯を作ってくれたり、頼めば惣菜を買ってきてくれたりすることはあったが、俺の食事はもっぱら湯を沸かすだけで作れるインスタントだった。湯気とともにたちのぼる何かが焦げたようなにおいに顔をしかめると、ぼそりと「野菜炒め」とメニューを告げる声がした。 「冷蔵庫の中のモン、適当に使った」 「…事後報告じゃ意味ない」 「…悪い」 「謝るのは俺じゃなくていいよ。冷蔵庫は俺の管轄じゃないから」 「あ?手前のモンだろうが」 「ああ俺、最近は料理しないから。波江さんしか使ってない」 今、冷蔵庫に何が入ってるか知らないし。そう言うと、しばらくの沈黙の後にふたたび悪いと告げる小さな声が返ってきた。 別に、目が見えないから、怪我をするのが怖かったわけじゃない。ただ単に、そういう気分にもなれなかっただけだ。そして、そんなことに時間を割いてる暇も余裕もなかった。つまり、目のことが原因ではないが、まったくの無関係というわけでもない。でも、だからといってこうして奴が辛気臭い声を出すのは気に入らない。以前の、獣のうなり声のような音が嘘みたいに思えるそのはかない声を無視して、俺は静かに、奴に悟られないようそっとテーブルの上に指を這わせた。探るような指先が触れた箸をどうにかつかんで、皿を持って盛られた『野菜炒め』を口に運ぶ。 ……期待はしていなかったが、お世辞にも、うまいとは言い難い味だった。 ウスターソースで味付けしたのだろうが、むせてしまいそうなほどに辛い。どうにか舌を動かしてキャベツのような塊を飲み込むと、喉が焼けるような感覚とともに閉ざされた瞼の裏が熱くなった。ただでさえ、神経がとぎすまされているのだ。 白米なんかがあれば食べられないこともなさそうだが、カップラーメンの予定の炊飯器に米が炊かれているわけもなく、仕方なく水で流し込もうと、用意されていなかったコップを取るために立ち上がった。 「んだ、どした」 「…水」 「…わかった、座ってろ」 立ち上がろうとした両肩をぐいと押され、再びソファに沈んだ俺の体の隣を足音が通り過ぎていく。食器棚が開く音と、蛇口から水が注がれる音がして、手に冷たいコップが握らされた。すこしこぼれた水滴が、コップをつかむ手を濡らす。 「…濃かったか」 「少しね」 何の変哲もない会話。それが、平和島静雄と折原臨也のあいだで交わされているのだからどうかしてる。 「そうか、悪い」 「べつに、食べられないほどじゃないけど」 「そうか」 笑えるほどおかしくて、ばからしいことなのに、俺は笑い飛ばすどころか目の奥が熱くなるのを我慢して、野菜炒めをどうにか胃袋に収めきった。空になった皿を見て、奴はどんな顔をしていたのだろうか。そんな、どうでもいいはずのことを知りたいと思うなんて、俺は本当にどうかしてる。 → |