冬特有の、凛とした冷たい空気が肌を刺す。振りかざされた凶器―と化した道路標識だったもの―が巻き起こした風に髪を遊ばせて、臨也は柳眉をわずかに寄せた。風を切って走る臨也をひたすらに追い掛ける静雄は、死ねだの殺すだのと物騒なセリフを叫びながら、まるで重さを感じさせない動きで標識を振り回す。
――本っ当に、化け物だよね。
臨也は視覚から襲う寒さに堪え切れずに目を細めて一人ごちた。

静雄はこれといった防寒具を着用していないのだ。ちなみに今日の東京は極寒、一日を通しての気温は氷点下である。
今年一番の寒さです、暖かくしてお出かけくださいと今朝のニュースで耳にした臨也はその忠告に素直に従った。ポケットに突っ込んだ手には手袋をしてあるし、コートの下にはいつもより一枚多く着込んでいる。それでも頬を撫でる風は冷たく、寒さを十分に感じているというのに、静雄は寒々しいいつものバーテン服一枚きりでその身を冬の空気にさらしていた。

「寒さとか感じないの?シズちゃんって、やっぱりそういう感覚なんかも欠けちゃってるんだ?」
「ベラベラベラベラと、うっせえヤローだ、なッ!!」

びゅうんと音を立てて、まるで投てきでもするかのように投げられた標識を間一髪で躱す。丈の長い冬用のコートをはためかせ、臨也は逃走ルートの一つである狭い路地にその身を滑らせた。待ちやがれとお決まりのセリフを叫ぶドスをきかせた声を背中で聞き流す。
この狭さでは標識の類を持って来ることは不可能だが、飛び道具があろうとなかろうと油断などはできない。静雄には常識を超越した強さがあり、臨也の予想をも高く超えていくのだ。
ようやく狭い路地を出ると、ちらりと振り返って静雄との距離を確認してから、臨也は廃ビルの外階段に足をかけた。ポケットに手を突っ込んだまま、屋上へと続くそれを一気に駆け上がる。数秒遅れてたどり着いた静雄は一瞬躊躇するように眉をしかめたが、それでも臨也の黒いコートが視界から消えてしまう前にと急いで階段を上った。



何階分かの長い階段を駆け、ようやく屋上に着いた静雄を迎えたのは、両手をポケットに入れたままフェンスにもたれかかった臨也だった。

「追い詰めたぜ?何か言い遺す事があったら聞いてやらなくもねえ」
「追い詰めた?幸せな勘違いしてるね。こっちは待っててあげたんだよ、シズちゃん」

この後の事を考えると、愉しくて仕方がない。不敵な笑みを浮かべる臨也をぎろりと睨んだ静雄は、上がった息を整えるように肩で息をしながら問う。

「…気持ち悪ィな。ようやく殺される覚悟が出来たって訳でもねえだろぉ」
「当然!まだまだやりたい事が沢山あるからね」
「…やりたい事、だぁ?」

静雄はドスのきいた低い声を響かせながら首を傾けて笑う臨也に近づいた。革靴の爪先から滲む怒気を地面に染み込ませるかのように一歩ずつ屋上のコンクリートを踏みしめていく。

「手前のやりたい事っつうのは、どうせろくな事じゃねえだろ?なあ?」

一歩。
――さあ、こい。
臨也は笑いを堪えるのに必死だったが、怒りに支配されている静雄は臨也の表情の変化には微塵も気が付かないようだった。構わず、足を進める。一歩、そしてまた、一歩と。

「ならよお、ここで俺に殺されても文句、は――」

一歩。
静雄の革靴が、ある一点を捉えた瞬間を、臨也は逃さなかった。

「ッな!?」

ドコォ、
都会に似付かわしくない轟音が冬の空気を震わせる。
静雄は、自分に一体何が起こったのか、自分の立っていた場所に何が起こったのかわからなかった。ただ、先ほどまで確かに存在したはずのものが急になくなったのだ。

「…アッハハハハ、大成功〜」

臨也は甲高い笑い声をあげながら、ポケットに忍ばせていた小さなリモコンを取り出した。
この廃ビルはいわば臨也のトラップのひとつだった。小型の爆弾がいくつも仕掛けられており、ボタンひとつで丁度静雄が足を踏み出したところと、その足下の全ての階のコンクリートを破壊したのだ。役割を果たした起爆装置をはるか遠く下の地面に向かって放り投げ、臨也はリモコンを操作するためにと片方だけ外していた手袋をポケットから取り出してはめながら、未だ土煙をあげる"事故"現場に近づいていった。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ、ぽっかりと大きく空いた穴を覗き込む。

「さあて、どこまで落ちたかな――おや?」
「…テッメェ……」
「……二階しか落っこちてないじゃん。これ、結構お金も手間もかかってるんだけど。案外しぶといなあ」
「……殺す…」

静雄は階下の穴の淵にしがみついてぶら下がっていた。文字どおり崖っ淵に立たされながらも、ギロリとそれだけで誰かを殺してしまいそうな鋭い視線で、不機嫌そうに顔を歪めて真上から見下ろす臨也を睨む。

「…殺す…絶対殺す…殺す、殺す殺す殺す、」
「あんまり暴れない方がいいんじゃない?」
「殺す殺すころ、」

ギリギリと、怒りをぶつけるようにコンクリートを引っ掻いていた指が穴を広げたのだろうか。呪咀を吐く低い声をかき消すように再び轟音が響き渡った。爪や指先よりも早くコンクリートの方が悲鳴をあげるというのだから、もう常識というものを逸脱している。
それ見たことかと高みから見下ろす臨也の三階分下で、さきほどよりもより地面に近づいた静雄は片手だけで全体重を支えていた。巻き上がった土煙をもろに吸ったのか、ゴホゴホと激しく咳き込んでいるぐらいで、思っていたよりもダメージはなさそうだ。はい上がる前に何か重いものでも落としてやろうか。悪知恵を思い立った臨也は屋上を見渡したが、特にこれといったものはなかった。残念だとため息を吐きながら視線を階下に戻すと、静雄は自由な方の手にはあと息を吹き掛けていた。手をあたためるときにやる、あの仕草だ。

「クッソ…手がかじかみやがる…」

それは、ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。臨也は微かに鼓膜を震わせたその声に、巡らせていた思考を一旦停止させて、階下の静雄に向かって声をかける。

「へーえ。シズちゃんでもかじかむとかあるの」
「……あぁ?」
「じゃあやっぱり寒いんだ?」
「……ったりめーだろが。……俺にだって、それなりに…感覚くらい、あんだよ」
「……ふーん」

感覚があるなどと、よく言えるものだと思う。
こんな真冬日でも薄着だし、ナイフはまともに刺さらないし、銃で撃っても死ななかったというのに。それでも静雄はどことなく切なそうな顔をして、そう言った。そして、そんな静雄を見て、臨也はあることを思いついた。

「じゃあこれ、あげるよ」

見つかればマンホールの蓋でも落としてやろうかと画策していた手から、はめたばかりの手袋を外す。ぽいと未練もなく放り投げられ、落ち葉のように舞い降りてきたそれを掴んで、静雄は怪訝そうに眉を寄せた。

「…あ?…んだよ、これ」
「見てわかんないのかな。手袋だよ」

ただの手袋。いかにも高級そうな柔らかい手触りのそれは、本当にただの手袋のようだった。今の今まで臨也自身がつけていたのだから、実はこれには触れただけで死に至るような強力な毒薬が染み込ませてあって、手袋を嵌めると一瞬であの世行き――なんて事にはならないのだろうが、臨也が静雄に手袋をやる理由がわからない。

「手前、何か仕込んでやがるな?」
「心外だなあ…嫌なら返してよ。俺、まだ一度しかはめてないんだから」
「どういうつもりだ、何を企んでやがる」
「期待に添えられなくて申し訳ないけど、別に何も企んでないよ。――あ、」

飄々とした受け答えをしながら、どこか掴みどころのない表情を浮かべていた臨也だったが、何か思いついたのか不意に小さな声をあげたかと思えば穴の縁にしゃがみこんだ。手を口の横にあて、階下へと声を落とす。

「じゃあ、それ、俺からシズちゃんへのバレンタインって事で」
「……ハァ?」
「今日ってバレンタインでしょ。…あれ、ひょっとして知らないのかな。今日、二月十四日。バレンタインデー」

静雄はバカにしたような口調の臨也から手袋へとおもむろに視線を移し、まだほんのりと温かいそれを握り締めてじっと見つめた。
しばらくの間観察するように手袋を凝視したあと、おもむろにそれを手にはめ始めた。片手でぶら下がった状態のままで、時折口をつかいながら、むき出しの手に衣服を着せていく。

「……あれ」

てっきり受け取ることもしないか、いらねえの一言で捨てられる事になるだろうと思っていた臨也にとって、静雄の行動はまったくの予想外だった。勿体ないけど、あれは大きなゴミ箱に捨てたということにしておこう、と自らを納得させる段階にまで入っていたというのに。目を丸くして見つめる視線に気が付いたのか、静雄は不意に顔をあげた。

「……何ジロジロ見てんだよ。まさか今さら返せなんて言うんじゃねえだろうな」
「…いや、言わない、けどさ…」
「ならいい」

静雄は手袋をはめた両手を穴の淵に伸ばし、懸垂をするようにして穴からいとも簡単にはい上がった。あれほどの筋肉を持っているのに体重は驚くほど軽いのであまり期待はしていなかったが、コンクリートは先ほどのように崩れたりはしなかった。
ズボンについた土埃を払って、ポケットからタバコを取り出してくわえ、ライターで火を付ける。一連の動作がどことなくぎこちなく見えたのは、きっとその両手に手袋がはめられているからだろう。黒い指でタバコを挟み、肺に紫煙をゆっくりと流し込んでから、静雄は屋上から見下ろす臨也に背を向けたまま唸るように口を開いた。

「……見逃してやるからすぐ消えろ」
「 え?」
「今日、寒いみてえだしよぉ…仕方ねえから、見逃してやるっつってんだよ。…そう、…仕方ねえから、な…。…おら、気が変わんねえ内にとっとと失せやがれ!」

ぶつぶつとつぶやくようだった声を急に荒げると同時に、静雄はまだ十二分に味わえる長さを残したタバコを乱暴に床に叩きつけ、それを身代わりにでもするかのように革靴でグシグシと踏み潰した。

「……どういう風の吹き回しかは知らないけど、そうさせてもらうよ。俺も暇じゃないし」

何にせよ逃がしてくれるというのならありがたい。静雄の言葉に背中を押されるようにして、臨也は屋上に開いた穴からそっと離れた。


――きっと、寒さのせいだろう。
最後に視界を掠めた静雄の、ほんのりとと色づいた頬を瑣末なこととして記憶から消すために、臨也は自分にそう言い聞かせた。
階段をゆっくりと降りながら、すっかりつめたくなった手をポケットに突っ込む。ビルの谷間を吹き抜ける風が臨也の頬を色付かせていったが、臨也がそれに気付くことはなかった。


池袋の路地裏でのほんの数分間の、ある寒い二月十四日の出来事である。







バレンタイン記念


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