ひとがひとに何かを伝えるという行為には、必ず目的が存在する。

自分が考えたこと、実際に起こったことを言葉や行動を通して相手に伝え、受容した側には必ず何らかのアクションを求める。何も求めないのなら自分の中にしまっておけばいいのに、それでも伝えるということは、すなわち相手に何かを期待しているということだ。

じゃああいつは一体、俺に何を期待しているんだろう。




鼻腔譚





腕の拘束から逃れようと折り畳まれた手で胸板を突っ張ってみる。苦しいともがく。逃げようとすればするほど、背中に回された腕は逃がすまいとつよく締め付けた。そんな攻防を繰り返している間じゅう、首筋にあたる生暖かい呼吸だけが静かに時を刻み続ける。

あれっきり、どちらも何も言わなかったが、俺の中ではずっとあいつの言葉が響いていた。俺の意志など知らないと言わんばかりに耳が拾った、熱を帯びた声。俺の耳がおかしくなっていなければ、その低く擦れた声の持ち主は平和島静雄で間違いない。間違いないのだが、こうして怪我を負わせるまでに至るほど俺のことを嫌い、憎んでいた奴にその言葉を表す感情があるとは思えなかった。
ではなぜそんな言葉を口にしたのか。
答えは簡単だ。
平和島静雄の目的は、穴埋めだ。
俺の視力を奪ったのは他でもないあいつで、あいつは己の力を制限した。自分に、そして自らの力に対する嫌悪感がそうさせたのだろう。
忌まわしい力のせいで怪我をさせた。視力を失わせた。
まざまざとそんなわかりやすい結果をつきつけられて、ようやく、こんなに危険な力を他人に使うわけにはいかないと気付いたのだろう。それだけならば、若干遅すぎるけど大いなる進歩だよオメデトウと笑ってやるだけで済まされた。
しかし、あいつの良心はそれだけでは飽き足りなかった。ベクトルをぐるりと反転させて、あろうことか、ケガをさせた俺に照準を合わせたのだ。
好きだなどと見え透いた嘘を言い、俺の側にいることを正当化しようとしている。視力というかけがえのないものを奪ってしまったせめてもの償いとして、これからは自分が側にいて様々なサポートをしよう。そんな安直な事を考えているのだろう。眼球がこぼれ落ちた眼窩に注がれようとしている愚かしい感情。俺は、そんなものはいらない。
同情も憐れみも良心もいらない。後悔も葛藤も、俺と彼の間には不必要なものだった。
嫌いだ。平和島静雄を構成する全てが嫌いだ。どうして奴のことをこんなにも嫌いになったのかはもう思い出せないが、とにもかくにも、嫌いで嫌いで仕方ない。それは向こうも同じだったはずだ。嫌い、だから殺す。八年もの間守られてきたシンプルなルールを、今になって、あいつは汚い嘘で塗りかえようとた。

相変わらず平和島の腕の中に閉じ込められ、受け入れも撤回もされなかった行き場のない言葉を挟んだまま時間が過ぎていく。
時計を見ることができないから正確な時間はわからないが、もうそろそろ波江さんが帰ってきてもおかしくない時間だろう。彼女が帰ってくるまでにやらなければいけない仕事は山のように積み重なっている。こんなことで限りある時間を無駄にするわけにはいかないのに。
俺は力で拘束を解くことを諦め、仕方なく重い口を開いた。

「……いい加減、放してくれないかな」

俺が口を開くのとほぼ同時にぴくりと筋肉が動くのが伝わったが、いくら待っても拘束は緩められることのないままだった。
はあ、とため息を吐いて、今度はわざと神経に触れるような言葉を選ぶ。

「贖罪がしたいならつまらない嘘なんか吐くよりも死んでよ」

今までの平和島ならば一瞬で沸点に達し、死ねだのと叫びながら攻撃してきたのだろうが、今俺の前にいる奴は迷うように力を抜いたり入れたりを繰り返してゆっくりと拘束を解いていった。
ようやく解放されるのか、もしくは殴られるのか。見えないから次の動きを待つしかない。そんな俺を焦らすかのように緩慢に俺の背中から引いていった手は、両肩の骨の形に沿わせるように滑っていく。やがて動きが落ち着いたかと思えば、そのまま少しだけ後ろに押すようにして距離を取った。何かを言おうとしているのだろうか、ひゅっと息を飲んだかと思えばため息と一緒に吐きだしたり、小さく唸ったりを繰り返している。しばらく待ってみたがいつまでも喉を開けないので、それならばと先手をきった。

「もし嘘じゃないって思ってるんなら、それは思い込みだ。防衛機制の一つだよ。自己を守ろうとして勝手に適応するんだ」

俺を嫌いだ、殺したいという感情を抑圧して反動的に形成されたのが好きだという正反対の感情。
怪我をさせたという過去は取り戻せないから、これから側に居ることで補償しようとし、そのために本来とは違った感情を抱いて合理化する――口に出してみると、自分の中でそれが真実になっていく気がした。
辻褄があう。
考えてみれば、あの平和島静雄が俺が好きだなどと嘘でも言う訳がないんだ。罪滅ぼしだとしてもそこまでやる必要はない。
自分の忌むべき力の所為で他人に怪我をさせてしまった。それだけなら罪を贖う方法なんていくらでもあったのだろうが、相手は俺だった。だから、葛藤の末、無意識のうちに間違った感情が芽生えてしまった。全ては自分を守るため、なんだ。

自己完結してしまえば、俺の心はすっかり冷めきってしまっていた。

「……手前の側にいてえんだ、」

ようやく吐き出された声は、喉に詰まった言葉を絞り出すように重く、それでいて真摯だった。確かにそうなのに、俺には空虚な嘘としか思えない。

隠していたナイフを手に滑らせる。自分から出ていかないんなら無理やり出ていかせるまでだ。
パチン、と音を立ててナイフの刃をひらくと、その音に重ねるようにして玄関のドアが開く音がした。

カツン、甲高いヒールの音がとまる。歩幅からいって、おそらく波江さんだろう。平和島が気まずそうな声でどうも、と挨拶をしたが、肩をホールドする手はそのままだ。
スリッパに履き替えた、平均よりもいくぶんか早い足音がスタスタと横を通りすぎ、ふわりと香水の匂いが俺の鼻腔をかすめたところで、ようやく確信が持てた。

「……お疲れさま。どうだった?」
「滞りなく終了したわ。マウスの隣に資料と内容を録音したレコーダーを置いておくから聞いて頂戴。報酬は全額例の口座に振込まれたのを確認済み。次回の依頼はあっちからもうすぐメールで届くはずよ」
「…うん、ありがとう」

バサッと紙の束が置かれる音がする。聞いた内容だと、仕事は完璧すぎるほどの出来だ。俺と平和島静雄がこんなふうになっているというのに、波江さんはまるで機械のように淡々と業務連絡を終えた。十秒ほど沈黙したのちに「五時ジャストよ」と時報よろしく時を告げ、ジッと音をさせてタイムカードを切る。温度のない声で定時だから帰らせてもらうわと続け、来たときと同じようにヒールの音を響かせて去っていった。
また、ふたりきりになる。すっかり静けさを取り戻した部屋にバタリとドアが閉まる音が響いた。ヒールの音はだんだんと遠くなっていったが、平和島は相変わらず俺の肩を掴んだままだ。

「……放せってば。仕事ができた」
「側に、いさせてくんねえか」
「…だからー、それは勘違いだって、」
「……頷くまで放さねえ、」

ぎり、と肩に置いた手に力をこめられて、ナイフを握った手が思うように動かない。
こういう時だけその力を使うなんて卑怯だ。

「……あー、もう。なんなんだよ、なんでなんだよ」
「…好きだ から」
「……それはもう聞いた」


一回しか言わないと言ったくせに、平和島はまるで自分に言い聞かせるように呟いた。

好きという感情は貪欲だ。
好きになればなるほど、相手の事がもっと知りたくなる。知るだけじゃ足りなくなると、相手を求める。体温を、自分と同じ感情を、その体すべてを。欲望はどんどん大きくなる。たとえその感情が偽物だとしても、それに気が付かなければ欲望の増大を止めることなんてできない。
俺は期待されてることなんて、何一つできない。俺は平和島が嫌いなのだし、何かをしようとも思わない。
それに、――俺には、何も見えない。

「……面倒くさ」

こいつが俺に飽きるのも、この感情は間違いだと気付くのも、すぐだ。恋人のふりをするのにも、盲人への介護にも疲れ果てて、二度と近づかなくなればいい。

「……いいさ、くだらない茶番に付き合ってあげよう。君のしたいようにすればいい」

譲る気がないのなら飽きるまで。
己の判断がいかに馬鹿らしく面倒くさいものだったのか気付くまでぐらい、付き合ってやろう。デメリットもあるが、今の平和島の状態だとメリットが無いわけではない。平和島静雄を殺す機会は格段に増える。そう、それだけの話だ。

「ただ、君はきっと後悔する。ちょっと怪我してるからって、俺が大人しくしてると思わないほう が――」

ぐらり、体が平行感覚を失って、一瞬何が起きたのかわからなかったが、体を包む体温とタバコの臭いが今俺の置かれている状況を理解させる。
言い終わらないうちに、掴まれた肩をぐいと引き寄せられて、再びぎゅうと抱き締められたのだ。放せよ、思い通りにしてやっただろ。そう言おうとしたが、厚い胸板に押しつけられ、意味のなさない呻きとなってしまう。
抱き締める腕の強さがまた増した気がした。
平和島は固まったようにぴくりとも動かず何も言わなかったが、押しつけられた心臓が生きているとさけんでいた。服に染み付いたタバコのにおいが鼻をつく。俺の部屋に染み付くのだろう、この新しいにおいに早く慣れなくてはならない。

――また、仕事が増えてしまった。












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