ドゴォ。
都会の街には似合わないが池袋では聞き慣れた轟音に振り返ると、バーテン服の男がちょうど道路標識を地面から引き抜いた所だった。その姿を視界に捉えた瞬間、とっさの判断で路地裏に飛び込んだが、恐るべきスピードで投げられた標識に掠め取られた後ろ髪が数本散っていく。
くそ、最近本当によく会うな。
はらはらと舞う髪を一瞥し、俺は隠しポケットからナイフを手に滑らせた。これは保険で、今使う訳ではない。
奴に出くわしてしまった時の対処法など一つしかないのだ。
「逃げる」、それだけ。所詮ただの人間でしかない俺が怪物に適うはずなんかない。野生の熊なんかよりもずっとタチが悪いこいつと、誰が好き好んで交戦するものか。逃げられるのなら、逃げるに越した事はない。……そう、逃げられるのなら。

「……サイアク」

気付くのが遅すぎた。
路地裏を通り抜けてしまおうと足を踏み出して数歩走ってみたものの、数十メートル先に死刑宣告だと言わんばかりにビルの壁が立ちふさがっているのが見えたのだ。チッ、漏れ出た舌打ちをかき消すようにずんずんと歩いてきた長身が入口でもある唯一の出口をふさぐ。
ちなみに、こうなった時の対処法も、一つしかない。
俺は取り繕った、余裕ぶった顔で精一杯奴を睨んだ。

「いーーざーーやーーくぅううん?なぁんでわかんねえのかなあ、池袋には二度と来るな、っつってるだろーー?」

ぐわんぐわんと声を反響させながら近づいてくる奴が掲げているのは、真っ赤な郵便ポストだ。もちろん見間違いでもなければ、ミニチュアサイズでもない。ただの郵便ポスト。一見何の変哲もないように、じっくり見てもやっぱり何ら変わりのないただの郵便ポスト――なんだろうが、シズちゃんの手に掛かればどんなにありふれたモノであろうと殺傷能力抜群の凶器と化す。
その、シズちゃんプレゼンツ凶器コレクションの中でも五本の指に入るのがこいつだ。何て言ったってでかい。そのぶん当たる面積も、受けるダメージもでかいのだ。
以前この赤い悪魔から受けた衝撃を思い出し、冷や汗を背中に感じながら俺はじりじりと後退りした。踵がゴツリと壁にあたる。

「やだなあ、静雄。そんな物騒なもの持っ…て、……」

あれ。

シズちゃん、と言ったつもりだったのに、口は勝手に『静雄』と音を紡いだ。
『静雄』
その言葉が耳に頭に反響した、とたんに派手な衣装のアイツが脳裏にポヤポヤと浮かんでは増えていく。「サイケデリック・ドリームスは」だの「臨也さん臨也さん」だのと口々に喚く。
うるさい、邪魔だ、邪魔。今はそんな余裕は――……って。

俺が脳内で五、六人ほどに増殖したアイツを消しきるまでにはかなりの時間と隙があったはずなのに、シズちゃんは今のところ一切、攻撃どころか手さえ出してきていない。
俺が目をしばたたかせると同時に、グワラァンとすさまじい音が沈黙どころか鼓膜までもを突き破った。そのあまりの音の大きさにに一瞬隕石でも落ちたのかとも考えたが、バーテン服を着た脚の隙間からひしゃげたポストが地面にめり込んでいるのが見えた。
なんだ、ポストを落としただけか。
落胆しつつ視線を上に上げると、その脚の主はサングラスの奥の瞳をまるくしながら無様に口をポカンと開けてつっ立っていた。

「…………………………今テメェなんつった」
「……別に?もう二度と言わないから安心し、」

言い終わらないうちに、無駄に長い脚で間合いを詰めた奴が、俺の胸ぐらを掴む。
もちろん無抵抗でそんな状態に陥ったわけではない。俺はちゃんと手首を狙ってナイフで切り付けた。が、彼の屈強な皮膚は刃先の侵入すらも許すことはなくカフスボタンを一つ飛ばすのみに終わった。

「な、なに」

尋常じゃない奴の様子に戸惑い、その表情から何かを推し測ろうと乱れた金髪を見上げる。そこには不機嫌と嫌悪感をむきだしにした苦い表情があり、いつもポワーンと気の抜けた表情ばかり見せるアイツとは大違いだな、などと考える間もなく掴んだ胸ぐらを一度、軽く揺さ振られた。

「いいからもっかい言え、言わねえと殺すぞ」
「っ、何で俺が君の言うこと聞かなきゃならないのさ」
「うっせえノミ蟲。言え。殺すぞ」
「どうせ言っても言わなくても殺されるんでしょ。じゃあ言わない」

言い終わるとほぼ同時に、俺を揺さ振る手の動きが止まり、ブチッと血管の切れるような音が聞こえた気がした。金色の髪の隙間からみえる、額に浮かぶ青筋。切れて死ねばいいのにと思いながら、これから起こるであろう喧嘩という名の殺し合いに備え、手に忍ばせたナイフを握りなおす。

「……こっちが下手に出てやりゃあ…つけあがりやがってよォ……」

大地震の予兆のような呻き声を吐き出しながら、胸ぐらを掴んでいた手が離される。態勢を立て直す暇もないまま、下手をすればコンクリートなんかよりも硬いであろう拳が俺に向かって降りあげられた。

「死ねええ臨也あああ!!」


いつものセリフ、いつもの表情、いつもの行動、いつもの展開。
こいつは、やっぱりどこまでも『シズちゃん』だ。












頭を揺さ振られるような衝撃。
氷のように冷たい壁に全身をしたたかに打ち付けた俺はそのままずるずると体を預け、地面に尻をついた。

「臨也くんよォ、絶体絶命、なんじゃねえの?」

かけられた声に引きずられるようにして、霞む視界をゆっくりと上にずらしていく。黒と白のバーテン服、胸ポケットにしまわれたサングラス、ぶらさがっているだけで意味があるのか甚だ疑問を感じる蝶ネクタイ――…そして、にやりと口角を歪めた『静雄』の顔。
静雄。
ああ、そうだ、この後また予約入れて――あれ、今日のあいつとの約束、何時だっけ。ええと、この後の取り引きの後で――でも、確か時間変更のメールが来てたから……。
しっかりしない頭で記憶の糸をほどいていくと、シズちゃんはおもむろに長い体を折り畳んで、地面に座り込んだ俺の目線に合わせるようにしゃがみこんだ。

「……んだよ、考え事かァ?ヨユーだな」

頭の中でごちゃごちゃになった情報を整理しきる暇もなく、伸びきってしまったVネックの胸ぐらを再び掴まれ、シズちゃんが立ち上がるまま俺の体も力任せに宙につりあげられる。

ああ、確かに、こいつの言う通り、絶体絶命かもしれない。

隠しナイフは標識に弾かれて手の届かない所に転がってしまったし、満身創痍の体は思うように動かない。しかし、それでも精一杯の憎まれ口を叩くのが折原臨也、俺だ。

「……ハッ、どうしたら君が死んでくれるのかなって 考えてたんだよ」
「……死ねノミ蟲。殺す」
「じゃあさ、俺を殺す前に死んでよ、シズちゃん」

それでもこいつは俺を殺しはしない。とんでもなく痛いだけで致命傷は与えない、それがシズちゃんだ。
今度は全治何週間になることやら。
観念して目を閉じ、今はまだ明るく流れ星などは見えないが「シズちゃんに殴られるまでに心の中で三度願い事を言い切れば叶う」という、今までのボコられライフから編み出した俺ルールに従ってささやかな願い事を唱える。
『今度は顔を殴られませんように』
…いつもは三文字目辺りで意識が飛ぶのに、珍しい事もあるものだ。
『今度は顔を殴られませんように』
……いくらなんでも、遅すぎる。
『今度は顔を殴られません、ように……』

…………言えてしまった。

しかも未だ顔を殴られていないということは、ひょっとしたらひょっとすると俺ルールに基づいて願い事は叶えられてしまったのかもしれない。いや、まさに願ったり叶ったりでありがたいのだが、どうせならもっとちゃんとした願い事をすればよかった。シズちゃんの腕力のみで宙に浮かされながら猛烈に後悔する。そのまま時間だけが過ぎた。

そして、

「……俺には、平和島静雄って名前があんだよ」

ようやく、『今度は顔を殴られませんように』を軽く20回は言えそうなぐらいの長い間、ずっと黙ったまま手さえ出さなかったシズちゃんがここに来てようやく口を開いた。のだが、傾けた耳に入ってきたのは予想だにしなかった言葉だった。
今まで何度も同じような事を言われてきたが、別段今言わなくてもいい台詞だ。なんで、今?
呆気にとられる俺を置いて、シズちゃんは「だからよお、」と続ける。

「どうしてもっつうんなら……見逃してやらなくもねえ。さっきみてえにだな、…………名前」
「え?なに聞こえな、――ッ!?」

語尾だけが急にフェードアウトしていくのでボリューム調整を促そうとしたが、そのセリフを全て言い終わる前にシズちゃんは何の前触れもなく俺の体を地面に叩きつけた。
落とした、とかではなく、捨てたと言った方が正しい。
いきなりのことにまともに受け身もとれず、地面に思い切り打ち付けられた痛む肩を押さえながら半身を起こすと、いつのまにかシズちゃんは俺に背を向けていた。
すらりとそびえ立つ、モノクロの背中が怒鳴る。

「名前で呼びやがれっつってんだ!…チッ言わせてんじゃねえクソが死ね!!」

……一度しか言われていないとか、あんなので察せたら奇跡だとか、何でそんな事を言われなくちゃいけないのかとか。
言いたい事は山ほどあったが、こいつを相手にまともな会話が成立したためしが無いので、その全てを無理やり飲み下す。

「……よくわかんないけど言ったら見逃してくれるの?」
「そう言ってんだろ、わかってんなら早くしろ」

尽きない疑問を飲み込み、奴の名前を呼ぶだけで見逃してくれると言うのだ。
随分とおいしすぎる話だが、呼ばなければまたボコボコにされるのは必至。ならば、垂らされた蜘蛛の糸にしがみ付かない理由などなかった。

「……静雄」
「おう」
「……呼べって言ったから呼んだだけ、なんだけど……」

そう言うと、シズちゃんはもう一度「おう」とぶっきらぼうに返事をした。そして後ろをむいたままポケットからタバコを取り出し、カチリと音をさせて百均のちゃちなライターで火をつけた。定期的に吐き出される紫煙が金色の頭越しに見える。
お互い何も言わないまま、シズちゃんがたまに煙を吐き出す音だけが繰り返さる。
やがて、タバコが短くなるのに充分な時間が過ぎると、シズちゃんは尻のポケットからおもむろに銀色の小さなケースを取り出した。
そこから名刺を出す……訳もなく、三分の一ほどの大きさにまで縮こまった吸殻を投げ入れ、ケースを再びポケットに突っ込む。

「……次からもそう言わねえと殺す」

最後にすっかり薄くなった紫煙と一緒に捨て台詞を吐き、黒い背中は一度もこちらを振り返らず狭い路地裏から表通りへと消えていく。袋小路に取り残された俺はぼんやりとした頭で静雄の事を考えていた。


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -