「出る時、平和島静雄に会うだろ」

履きかけであろうヒールをかんかんと鳴らし、いつ玄関から出るともしれない波江さんに声をかける。顔を合わせて会話をする意味などないので、パソコンデスクに座ったまま。

「……会うんじゃないかしら?彼がまだあそこに居続けているなら」
「それでいい。もしあいつが居たら、言ってくれ」

俺の背後の窓にはブラインドが下りているはずだ。階下の通りに平和島静雄がまだ居座っているのかどうかはきっと波江さんも知らない。
だが俺の場合は違う。
俺の視界には居る。追い出そうとしてもかなわない、瞼の内側にこびりついた奴のイメージが。

「来い、って」

だから、消えてもらわないと、困る。





耳殻譚





「俺だ。来た」

最後に聞いた声よりもいくらかぶっきらぼうで、それでも今まで聞いてきたものよりはいくらも柔らかい声が、玄関から離れたパソコンデスクに座る俺の鼓膜をわずかに震わせる。
あれだけ追われ、逃げ続けてきたのだ。この間は色々といっぱいいっぱいだったから気配を読み取れなかったが、今の俺にはガチャリと音をさせて玄関が開いた時から訪問者が誰なのかくらいわかっていた。

「それくらい分かるよ。呼んだのは俺だし」
「……そうか」

声と共に足音がゆっくりと近づく。まるでこちらを伺うように床を踏みしめながら歩く――そんな速度に俺が痺れを切らしかけたあたりで、ようやく奴が立ち止まったのはデスクを挟んだ向かい側だった。
平和島静雄が動きを止めたであろうことを慎重に確認した後、デスクチェアーからさっと立ち上がる。

「、さて」

だんと大きな音を立てて、スリッパを履いた足がフローリングを叩いた。よし、大丈夫だ。地に足がつきさえすれば。
まるで暗示をかけるみたいに、自分に大丈夫だと繰り返し言い聞かせながら、俺は二歩目を踏み出した。…ほら、やっぱりなんともないじゃないか。三歩目からは以前と変わらないような速度で歩く。スタスタ、自分のものとしては久々に聞いたリズムだった。

「っ、おい」
「シズちゃんはコーヒー派?紅茶派?……ああ、君は苦いものが駄目なんだっけ。紅茶でいいかい」

焦ったような声は聞こえないふりをして、キッチンへと急ぐ。大丈夫だ、何も障害物などない。奴が来るまでに何度も確認したじゃないか。
黒い地図を頼りに歩き続ける。誤差の範囲内の歩数で、それとなく伸ばした手が第一の目的である柱にたどり着いた。二歩、三歩。ここで右に曲がる。
何度も繰り返したシュミレーションの通りに行動すれば、視界に描かれた通りの位置に置かれたポットに指が触れた。ご丁寧にちいさな点のついたボタンを押すと、あらかじめ給湯口のあたりに用意しておいたティーバッグの入ったカップに湯が注がれていく音がした。待つこと一、二、三秒半。平行を保ちながらソーサーに載せ、あとは来た道を来た通りに帰るだけ、だったのだが。

「あれ」

手のひらに乗せたはずのカップが消える。同時に、俺の地図からも姿を消す。いつまで経ってもカップが割れる音がしないので、いつの間にか俺の隣に移動していた平和島静雄が、俺の手から無言で、一瞬のうちにカップをさらっていったと考えるのが妥当だろう。
しばらく耳を澄ましてみれば、カチャンと陶器の触れ合う儚い音がちいさく響いた。どこかにカップが置かれたようだが、少し荒い、奴が呼吸をする音が邪魔をして正確な位置がつかめない。奴はここまで急いで移動してきたようなのに、「普通に歩く」事に集中していたからか全く気が付かなかった。
――役立たずのこの耳め。
己を呪っていると、不意に肩に鈍い痛みが走った。いや、痛みと言うには足りない。しがみつくような強さで、両肩を、きっと掴まれている。

「誰が、んな事しろっつった」
「……人を呼び付けておいて茶のひとつも出さない程、俺は常識知らずじゃないんだよ」

伸ばされた腕を払い除けようと堅い筋肉に爪を立てたが、俺の肩には力など籠めてないくせに、それはいくら強く押してもびくともしなかった。何度か試したものの根でもはっているかのように動く気配を見せないので、しかたなく諦めて力を抜く。
せっかく、視力を失っても問題ないっていう所をみせてやろうとしてやったのに。
舌打ちをしながら真っ暗の天井を見上げると、押し殺したような声が「クソッ」と呟くのが聞こえた。
何をそんなに、悔しがっているのか。
たぶん、こいつは責任を感じているのだと思う。相手が俺でなければきっと、あいつはもっと「被害者」の為に尽くしたはずだ。
あいつはそういうニンゲン…ぶったバケモノだから、きっと「責任を取る」などと考えて、それに一生を捧げるなんていうバカみたいな事さえ平然とやってのけるだろう。しかし俺相手にまさか、四六時中一緒に居て介護してやろうなんて奴にできるはずがない。それはもはや、平和島静雄じゃない。
奴の最大の譲歩は、ギリギリ見えるくらいの距離でじっと見守って、危なかったら助けるという辺りなのだ。例えばちょうど今みたいな具合に、危なげな事をしていたら止めて、これ以上怪我を負ってしまう前に哀れな「被害者」を助けてやる。助けてやった後で、助けなきゃいけない相手が俺だって事を再認識しては後悔する。そんなライン。
くだらない。相手はあの俺なのだから、俺が目が見えないせいで怪我しようがどうなろうが気に病む必要なんて無いだろう。俺だって無理矢理にそんな同情を押しつけられるのはごめんだった。

「……手っ取り早く終わらせようか」

あいつに、弱者として見られるのが嫌だ。助けられるなんて嫌だ。
同じ立場に立っていたいのに、目が見えないというハンデ、しかもそれを引き起こしたのは自分だという良心の呵責に苛まれて俺を上に上にと持ち上げる。
そんな平和島静雄はどんな化け物よりも嫌いだ。

そんな事をするぐらいなら放っておいてくれ。
真っ暗の世界に居座り続ける人間のなりそこないに興味は無い。ただの怪物のまま、俺の世界から出ていっていてくれたほうがまだいくらかましだった。


「この辺りうろつくの、もう止めてくれないかな。何がしたいのかは知らないけど、君は目立つ。勿論悪い意味でね。ああ毎日うちの前に立たれちゃ困るんだよ。迷惑だし、」

目障りなんだよね。と、危うくこぼれそうになった言葉はすんでの所で飲み込む。そんな事を言ってしまえば、かわいそうな目で見られるのは必至だ。目が見えなくても、自分が今どんな風にみられているのかどうかは分かる。波江さんにブラインドを下ろしてと言った時よりも、もっとひどい視線で刺すのだろう。

一息とまではいかないがまくしたてるように言うと、奴は何かを考えるようにおし黙った。お互いが呼吸するわずかな音以外何も聞こえないまま、時計の秒針が何周か回転するくらいの時間が流れた。

痛い沈黙。長すぎるそれを最初にやぶったのは、すう、と小さく息を吸ったような音だった。
ともすれば聞き逃してしまいそうなかすかな音を耳が拾ったのもつかの間、続けざまに発せられた、はっきりした低音が鼓膜をしっかりと震わせた。

「聞けねえ」

きっと二つの眼球はしっかりと俺を捉えている。刺すような視線に耐えられなくなって思わず顔を背けると、肩を軽く揺さ振られながら、まるで逃げる俺を追いかけるかのように口早に続けた。

「今みてえなの見せられて、一人にできると思ってんのか」

肌がピリピリと震えて、あまりの剣幕に気圧されそうになる。
だがここで引くわけにもいかない。

「は、何言ってんの。俺をこんなにしたの、シズちゃんじゃん。シズちゃんは痛くないし、両目もちゃんと見えるしでいいかもしれないけどさ。加害者のくせに、よくもそんな事が言えるよね。まさか、こんなにした張本人『だから』言ってなんて、ないよね。責任感じちゃってるの?それとも哀れみ?同情?目が見えなくなっちゃってカワイソウ?……お前が、俺に?やめてよ。何かの冗談だろ」

わざとあいつを傷つけるような言葉を選び、頭からぶつけるように浴びせていく。はやく気付けばいいんだ。自分がこんな奴を気遣う必要などなかったのだと。

「何とか言えよ、平和島静雄がそこにいるって、俺に証明してみせろよ」

ここにいるのが平和島静雄なら、俺を殴るなり殺すなりして出ていく。そしてもう一生、この部屋から出られなくなった俺とかかわることはなくなるだろう。
はあ、とつい荒げてしまった声を押さえるように俺が息を吐くと、肩に籠められていた力が少しずつだが抜けていくのがわかった。
ようやく解放される。この、肩を掴む手からも、瞼の内側の平和島静雄からも。
自然と歪んだ頬で「じゃあね。もう二度と会うこともないんだろうけどさ」そう言おうと口を開いた瞬間、肩に触れる程度にまで力の抜かれていた手が急に息を吹き返し、あろうことか、そのまま俺の身体を思い切り引き寄せた。

「っな、」

渇いた音をたてながら風が耳を駆け抜けて、一瞬のうちに、俺の頬が温かく堅い何かに押しつけられる。
ドクン。自分のそれとは異なる心臓の音が聞こえて、否応なしに今、自分がどこに居るのかわかる。生ぬるい温度から逃れようと固めた拳で堅い胸板を叩いてみたりするものの、もがけばもがくほどにギュウと全身をしめつけられていくような気がする。

「にすんの、」

ようやく出せた、喉につまっていた声は、焦りと驚きと不安が入り交じっていてあまりにも弱い声だった。こんな声、奴の前ではもう二度と出したくなかったのに、俺は今平和島静雄の腕の中にいる。俺がそんなところにいられるわけがないのに、でも確かにいる。どうしてなのか、何が何だかわからないままに、耳だけは勝手に音を拾い続けた。

ドクン、ドクン。「臨也」
聞きたくなくても、がっちりとホールドされた身体では耳を塞ぐこともかなわない。
「一回しか、言わねえ」
やめろ、そんな声は聞きたくない。
瞼の内側で、平和島静雄の口がゆっくりと開かれていく。

いやだ、



「好きだ」




きたない同情の言葉が反響して、一定の調子で鼓膜を震わせる。血液を供給し続ける心臓の音とともにジワジワと俺を侵食していく気がした。空っぽの眼窩からこぼれだした黒にどんどん沈んで溺れていって、真っ黒に染まっていく、そんな気がした。失うなら、耳でよかった。





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