もう逃げる必要は無いが、お互い疲れていたこともあり、そのまま新羅の家の近くのビジネスホテルに転がり込むことになった。

着いた部屋で、靴を履いたまま埃っぽいベッドに腰掛ける臨也の頬を、ベットサイドの小さなテーブルに置かれたランプがオレンジ色に染める。お互い何も話さないまま、ベッドとベッドの間のちいさなスペースにお互いの足を投げ出して向き合った。

「……ねえ」

先に口を開いたのは臨也だった。
ぽつりと、まるで独り言でも言うかのように、下を向いたままの臨也から声がこぼれ出る。


「もし、このままずっと戻らなかったらどうする?」
「……縁起でもねえな」
「でも、もう四日だよ。あり得ない話じゃない。まず、今の状態があり得ないから、何が起こっても不思議じゃないだろ」
「まあ、そうだけどよ……」

そうだ、もう四日も経った。

「いつも通り」、池袋に来た臨也を追い掛けて路地裏に入り、ビルの壁を駆け上った臨也とぶつかって、気を失って、俺たちが入れ替わった非日常の始まりからもう四日。
気が付けば、視界に自分の顔があるということにも慣れつつある。
見慣れた俺の口がゆっくり開いて、それから少し気恥ずかしそうに歪んだ。

「俺さ。もう、このままでもいい気さえしてきたんだ。慣れ、って怖いね」
「……あんなに戻りたがってた手前が、な」
「だろ?万更でもないとか思い始めちゃってるんだからなんとかして欲しいよ」
「そうだな」

軽く笑いあって、視線を上げる。
いたく真剣な顔がそこにはあった。臨也と俺の視線がかち合う。


「じゃあ、戻るしかねえな」

ジジジという照明の音が、やけに大きく聞こえる。
臨也は「そうだね」とちいさく相づちを打ったきり押し黙り、照明の音だけが部屋を支配した。

「……色々あって疲れたな、今日はもう寝るか」

沈黙に耐えかねた俺がそう言うと、臨也はこくりと頷いて返事をする。臨也の後ろの壁にある電気のパネルを押そうと立ち上がり、バチンと音がして洗面所の電気が落ちると同時に、臨也の手が俺の袖をつかんだ。

「あのさ」

電気を消す手をいったん止めて、言葉の続きを待つ。
臨也は言いにくそうに俯いたり視線をさまよわせたり目を瞑ったりしていたが、やがて決心がついたのだろう、俺の袖を離して顔を上げた。

「……俺は、君を守ろうとなんかしてないよ。ただ、一人でいることに慣れすぎて、どうすればいいのかわからなかっただけ」

森厳さんに話した事を思い出しながら「聞いてたのか」と聞くと、臨也は曖昧に笑った。

このやろう、盗聴器か何か仕掛けてやがるな。

こみあげてくる怒りよりも大きな気恥ずかしさを隠すように、口が勝手に動きだす。

「手前は一人じゃねえだろ。今回の件で巻き込んだ奴がいるじゃねえか。巻き込める人がいるってのは、一人じゃねえってことだ」
「違うよ。お互い利用してるだけ。それだけだよ。方法なんて、いくらでもあるから」

そう言った臨也は「言いたいことはそれだけ」と言い、靴を脱ぎ捨て俺に背を向けてベッドに横たわった。臨也の背中、俺の背中はいつもと変わらないはずなのにちいさく見えた。

やっぱり、放っとけねえ。

「……俺がいる、俺は、違う」

臨也の背中に話し掛ける。寝てはいないと思うが、返事は返ってこないだろう。
俺は残り一つとなった照明のスイッチを押した。ぱちん。無機質な音がして天井の照明が消え、ベッドサイドの照明のぼんやりとした光だけが部屋を照らす中、臨也の横を通りすぎて自分のベッドへと戻る。お世辞にも柔らかいとは言えないマットレスに腰掛けながら照明を絞ろうとサイドテーブルに手を伸ばしたら、そこには臨也の顔があった。

「シズちゃん」

照明があたって、真っ赤に染まっている。

「元に戻る実験、してみようか」


心臓の音が、やけにうるさい。


臨也はゆっくりと起き上がり、裸足のまま隙間に足を下ろして長い腕をこちらに伸ばした。俺の横に手をついてじっと俺を見る。

「ちょっとさみしいかも」
「何でだ?」
「これで全部、元に戻るかもしれないから」

全部。そう繰り返して寂しそうに微笑む臨也に、「あれだけ嫌いだの耐えられないだの、元に戻るだのと言っていた奴のセリフか」と言うと、臨也は真っ赤な顔で黙れと吐き捨てた。
俺は「自分の顔」の頬に手を伸ばした。冷たい、と唇が動いて眉が寄る。こんなふうに表情がくるくると変わっていくのを、臨也の顔で見たいと思った。

「ちなみに、たとえ体が戻っても、手前は一人じゃねえからな」
「……どうだろう」
「俺がいるっつったろ」
「……きっと、すぐに耐えられなくなるよ」
「それこそ、どうだか」
「前科、あるじゃん」
「最近はちげえよ」
「それは入れ替わってたからで、君は仕方なく――」
「臨也」

ベッドについていた臨也の手を思い切り引く。自分の顔が鼻先にまで迫るというのは、なんとも不思議な感覚だった。

「……」
「……」
「…………」
「…………あの、さ、」
「……うっせえ、口閉じろ」
「……シズちゃんは、目、閉じてくれないかな」
「……おう」


臨也の要望通り、ゆっくりと目を閉じる。


真っ暗な世界、瞼の向こうには臨也がいた。艶のある黒い髪に真っ赤な目、筋の通った鼻にしゅっとした小さな顔。細っこい身体。臨也を構成するすべてだ。


そして、臨也は、ゆっくりと目を閉じた。









いつも通りの日常というものは、ひょんな事がきっかけでたやすく崩れ去るものだ。










「なんか変な感じ。ほんと変わったよねー、俺達」
「……変わったんじゃねえよ。変えたんだ、手前が」

臨也は一瞬びっくりしたような顔をして、それからふっと笑んだ。
くるくると変わる表情。俺が見たかった臨也。

「責任、取れよ」

壁に響いたのは、どっちの声だったか。










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長い間お付き合いくださりありがとうございました。


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