臨也からメールが来た。
 ブーブーと震え続けながら背中の小さな画面に臨也の名前を表示する携帯を開いて、メールを開く。目で文字を追うまでもない。ディスプレイに表示されたメール受信画面にはたった五文字が並んでいるだけだった。

『今すぐ来て』

 何様だ。

 チッと舌打ちを響かせ、その手ごと携帯をズボンのポケットに突っ込む。

 誰か―強いて言うなら狩沢辺り―に見られでもしたならばあらぬ勘違いをされそうなものだが、静雄と臨也の関係はけして恋人などという甘ったるいものではない。かといって何か名前のあるような関係でもないのたが、少なくとも恋人、どころか友人でも無いことは確かだ。
 普段は会えば殺しあうような関係。だがたまに、ごくたまに臨也からこういった内容のメールが来る事がある。二人を知っている人間からすれば、その事実はなんとも奇妙なものに違いないのだが、何度もそんな逢瀬を重ねてきた静雄と臨也にとっては限りなく日常に近い出来事に過ぎなかった。

「……面倒くせぇ」

 会いたいなら手前が来ればいいじゃねえか。そうぼやきながらも、静雄の足は臨也の待つ新宿へと向かっていた。



***



「……新宿じゃあ大雨でも降ってたのか?」

 臨也の部屋に足を踏み入れたばかりの静雄の目の前には『限りなく日常に近い』などとは到底言えそうに無い光景が広がっていた。
 玄関に突っ立った臨也はまるで台風にでも巻き込まれたかのようにびしょ濡れで、その漆黒の髪から水を定期的に滴らせている。いつからここに居たのだろうか、フローリングの床には大小さまざまの水溜まりが無数に出来ていた。
 慌てながら、何か拭くものがないかとポケットを探る静雄をあざ笑うかのように、臨也はへらりと笑んだ。
 いつもの憎たらしげなそれとは違う、知らない顔だ。
 ポケットに手を突っ込んだまま向けられた訝しげな静雄の視線を断ち切るかのように、臨也はおもむろに口を開く。

「風呂、入ってた」

 予想に反して、臨也の声は案外普段と変わらなかった。よかった、と少し安堵する己を叱咤する。
―相手はあのノミ蟲だぞ、大事があった方が良いじゃねえか。

 心中で三度、呪文のように唱える。なんとなくむかついたので、できるだけ声音を変えないように心がけながら遠慮がちに問うた。

「……服、着たままでか?」
「ああ……、忘れてたよ」
「忘れてたって、お前…」
「ずうーっと、浸かってたんだよね。頭から爪先まで」

 服に汚れでもついてしまたのだろうか。そんな単純なことではないと分かってはいても、問わずにはいられなかった。どこか汚したのか。臨也はそれを聞くと、一瞬驚いたように目を丸くした後、すぐに三日月の形に細めて「短絡的だね」とバカにしたように笑った。
 今日の臨也はよく笑う。

「浴室ってさ、不思議な空間だと思わない?」
「…ハァ?」
「人間が、一日の汚れを洗い流す場所なんだ。嫌なことを全部洗って、水のなかに追いやる場所」

 臨也の話がまわりくどく長ったらしいのはいつものことだが、ここまで意味の解らないことを話すというのはきわめて珍しいことだった。
 何が言いてぇんだ、もっと分かりやすく言え――口を開いた静雄を遮るかのように、臨也は喋喋呶呶と続ける。

「嫌なことを浴槽の中で呟いて、最後に湯を抜くとスッキリする――って、この前テレビでやっててさあ。試してみたんだけど、便利なのは泣いてる事がわかんないくらいで、自分が棄てた汚い言葉が溶け込んだ水に浸かってるっていうのが…なんだか、すごく面白くてさあ。だって、洗い流すための浴室で、汚いものにまみれてるんだよ?おかしいよね」
「……で、手前はどうしたんだよ」
「水の中で、息、止め続けた」

 けろりととんでもない事を言ってのけた臨也に驚き呆れつつも、なぜかそうしなきゃいけないような気がして、今だ水滴を垂らしている頭を小突く。臨也は痛いと間抜けな声を漏らした。

「……手前は、バカか」
「…うん、死ぬかと思った。さすがに俺もヤバイと思ってさ、シズちゃんにメールしてみたんだけど、まさかこんなに早く来てくれるなんて思わなかったよ」

 来てくれるとは思ってたけどさ。臨也はそう言いながらヘラヘラと笑った。本当に、今日の臨也はよく笑う。なんだか気恥ずかしくなって、話題を反らそうと口を開く。

「泣かなくちゃいけねえくらいの、何があったんだよ」



 何気なく問い掛けたつもりだったのだが、臨也はさっきまでのヘラヘラとした表情を一瞬でどこかにしまい込んだ。

 あれだけ淀みなくべらべらと喋り続けていた臨也が、ここで初めて沈黙したのだ。

「……臨也?」

 押し黙ったままの臨也の代わりに、ジャー、という音が静かに響く。今まで気が付かなかったことが不思議なくらいだ。まさか、シャワーを出しっぱなしにでもしているのだろうか。まったく、金持ちの感覚はよくわからない。

「……ちょっと、風呂見てくるわ」

 浴室へと走ると同時に、臨也が何かをぽつりと呟いた。それはとても小さな音だったが、シャワーの音にかき消され、静雄の耳に届く事はなかった。






「うっわ……」

 浴室は思った通りの惨状だった。バスタブからは勢い良く湯が溢れ、小さな排水溝では追い付かず、タイルはすっかりその姿を沈めてしまっている。ズボンの裾を捲り上げて、大きな浴槽と化しつつあるタイルの上を歩き、キュッと音をさせてコックを閉めた。
 ようやくその役目を発揮し始めた排水溝がゴポゴポと派手な音を立てるのを聞きながら、浴室を後にしようと振り返る。

「シズちゃん」

 目の前には、臨也が居た。片手にはナイフ。
 ああ油断したと自らを責めても遅い。元々、俺と臨也はこういう関係だったじゃないか。臨也からメールが来て、臨也と二人で会って、喧嘩抜きで話して、笑いあって―――ああ、油断した。

「そうだよなぁ…手前と俺とは、こういう関係だったよなぁ…」

 とりあえず手近にあったシャワーを引っ込抜く。すさまじい音を響かせ、シャワーの繋がっていた蛇口は大量の水を吹き出した。
 ホースを鞭みたいにして使えばまだ何とかなるだろう。臨也の出方を見ながらシャワーを構えると、臨也は予想外にもナイフを此方へ投げて寄越した。

「……どういうつもりだ」

 ちゃぷん、と小さな音を浴室に響かせてナイフが沈む。銀色のそれは壁に張りついたライトに照らされて水面にきらきらと光を映した。

 ちゃぷん。今度は臨也の足が浴室に沈む。ちゃぷん、ちゃぷんと水音を響かせながら、臨也はこちらへと近づいてくる。

 今、ナイフを拾ってこいつの首をかっ切ったら、こいつは死ぬのだろうか。

 ぽつりと浮かんだ考えはなんだか恐ろしいもののように思えた。喧嘩の最中、いつも考えている事のはずなのに、まったくおかしい話だ。物騒な考えを吹き飛ばすように頭を振れば、いつのまにか臨也が目の前にまで迫っていた。臨也の赤茶色の瞳が俺を映している。薄い膜をはったそれは、とろとろと溶けていきそうで、まるで飴みたいだと思った。

 気が付けば、臨也は目と鼻の先ほどの距離にまで近づいていた。
 チャンスだ、そう思うのに、まるで金縛りにでもあったかのように体が全く動かない。固まった俺を尻目に、臨也はゆっくりと唇を動かした。

「君を殺すのなんか、もう、夢の中だけで充分なんだ」

 絞りだされたようなそれはひどく、ひどく、泣きそうな声をだった。

 気が付いたら臨也の手を引いていた。手放されたシャワーのヘッドが沈んでいくのを横目で見る。臨也が小さく抗議の声をあげたが、知らないふりをして無理やり腕の中にしまい込んだ。

 とりあえず、びしょ濡れの臨也が乾くまでぐらいは傍にいてやろう。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、二人していつまでも壊れたシャワーの撒き散らす水を浴びていた。











浴室


林檎嬢×臨也企画「偏愛」様に提出させて頂きました。
素敵な企画をありがとうございました!


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