※暴力あり ひゅん。空気を切る音を響かせ、突き出されたナイフの巻き起こした風が四木の頬をなでる。真夏にもかかわらず、その風はやけに冷たいものだった。 「四木さん!」 己の名前を呼ぶ、震えた舎弟の声をまるで他人事のように耳に入れた四木は表情ひとつ変えずにナイフを向けてきた男の手首を手刀で打ち、ぎらりと煌めくそれをはたき落とした。ナイフがコンクリートに落下しカランと無機質な音を響かせる。 あまりの鮮やかさに目を丸くする男を尻目に、四木はそのまま腕を抱え込むようにして男の体勢を崩させ、チャラチャラとしたアクセサリーで飾られたむきだしの鎖骨に踵を落とした。 ヒトの鎖骨は、人体の中で最も折れやすい骨である。 ごきゅ、と嫌な音をさせたあと、男は断末魔の叫びを上げた。呻きながらコンクリートを転がる男の胸ぐらを掴んで高く掲げる。 まるで万歩計のように、動くたびに恨みが増えていくのがこの仕事である。当然、男との面識はない。 「……どこの組の鉄砲玉だ」 顔面蒼白のその男は、恐怖のあまりか、パクパクと魚のように口を開閉させて意味の無い言葉を漏らすだけだった。 「…答える気が無いなら、その口はいらねえな」 胸ぐらを離せば、四木の腕力によって地上から浮いていた男はコンクリートに崩れ落ちる。四木はゲホゲホと咳き込む男の頭に標準を合わせ、そのまま革靴を振り下ろした。 重力だけでなく、プラスの力が加わったそれは男の脳天を直撃し、歯の数本は折れてコンクリートに散る――はずだったのだが、黒く艶やかに光る革靴は男の茶髪から数センチのところで止められていた。 色眼鏡の男が突き出した、派手な意匠の杖によって。 「……赤林さん、居たんですか」 「どうもどうも。お久しぶりですね」 「たった二日ぶりくらいでしょう」 まるで井戸端会議でもはじまるかのような緊迫感のない挨拶が男の目の前で繰り広げられる。男は目をしばたたかせて四木と赤林を交互に見た。 「それにしてもお見事!うーん、鮮やか。この一言に尽きますねえ。まるで流れるような体の動きでしたよ」 「……なんだか嘘くさい褒め方ですね」 全く力など入っていないのだろうか。思わずそう疑ってしまうほどに、二人は淡々と会話を続けていた。しかしよく見ると、杖の先が僅かに震えている。四木が体重をかけ、かなりの勢いで振り下ろした踵を、赤林はたった杖一本で食い止めているのだ。 ―こいつら、マジでヤベェ。 折れた鎖骨を守るように蹲りながら、男はモゾモゾと四木の踵の照準から外れた所へ移動した。これで、たとえ体重に耐え切れなくなった杖がボキリと折れてしまっても大丈夫だろう。 状況はまだ完璧に安全だとは言い難いのだが、男は安堵のため息をついた。頭上では相変わらずのテンポで会話が続く。 「いやいや、思った事を言っただけですよ」 「あんな褒め方だとお世辞に聞こえますよ」 「お世辞だなんて、そんな」 「それに、自分より確実に力が上だと解っている相手に褒められても素直に受け取れないんですが」 「ははは…素直に受けとめてくださいや」 呆れたように笑う赤林とは正反対に、四木の表情はほとんどと言っていいほど変わらない。少し――ほんの、少しばかり言いにくそうな顔をして、四木は「私は」と切りだした。 「……私はこの男に、この踵を受けとめて欲しかったんですがね」 「ああ、これはすみません。いやあ、こいつは俺の管轄でしてねぇ……」 話の矛先が自分に向き始めている。そう感じた男は、背を向けて話す二人からじりじりと遠ざかった。 ―今なら逃げられる! 四方を赤林や四木のの部下に囲まれているにもかかわらず、男はどこから来るのか、絶対的な自信をもって心中で叫んだ。 右足をゆっくり立てる。あとは左足を踏み出し、走るだけ――。男の心臓がドクドクと高鳴りだした瞬間、赤林は男に背中を向けたまま、口を開いた。 「鎖骨折られたのに動けるんだねぇ。おいちゃんは君みたいな元気な子は好きだよ」 男の背筋を、冷たい汗が一筋流れた。 まるで何もかも見透かされているような気さえする。このまま左足を踏み出すことなどできるはずも無かった。 「……まあ、そんなとこですが、ちょっとお借りしてもいいですかい?」 「…はあ、好きにしてくださいよ」 「どうも」 人間というものは、追い詰められると信じられない行動をする。この男もそうだった。 圧倒的な力の差を見せ付けられ、何をどう思ったのだろうか、変わらず後ろを向いたままの赤林と四木に向かって固めた拳を振りかぶった。 標的はどちらでもない。どちらにせよ粟楠の幹部ということは間違いないだろうから、オヤジも許してくれる――そう思ったのだろう、男は裏返った声で自らを鼓舞するように叫んだ。 部下が危ないと叫んだが、四木はその必要はないとでも言うように緩慢とした仕草で振り向き、ポケットに手を突っ込んだまま、その長い足を後ろに蹴りあげた。しかし、四木と男の間に赤林がのそりと割り込む。 「向こう見ずは嫌いじゃないけどねえ…」 「赤林さっ…!?」 車は急に止まれない。子供でも知っている標語である。まさしくその標語の通りに、勢いのついた四木の足は白いスーツを翻して赤林に向かって伸びていった。 赤林は蹴りあげられた四木の爪先を左手のみで受け止め、杖を男の足元に差し込み、バランスを崩して転げる男の右腕を掴んで本来曲がるはずの無い方向へぐいと押し上げた。 濁点の多い悲鳴が辺りに響き渡る。 「残念だねぇ…怒りっていうのは何よりも鋭い、凶器にだってなるのに。駄目だよぉ。一歩踏み外しちゃったら、それはもう狂気にしかならないからねぇ……」 まるで諭すような声。 色眼鏡の向こう側の瞳は見えないままだが、口元は笑っているように見えた。 「おいちゃんみたいな職業のヒト達はねぇ。みんな気合い入ってるから、なまっちょろいキョウキなんかじゃ切れないんだよ」 四木は赤林に捉まえられた足を下ろしながら、パンパン、と、スーツについたホコリをはたいた。 その音を合図にしたかのように、再び、あくまでゆっくりと、男の腕が押し上げられていく。 関節が軋んだ音を立てる。男の瞳には明らかな恐怖の色が浮かんでいた。先ほど赤林に助けられた前歯がガチガチと音を立てる。 「この事、よぉく頭にたたき込んで。今後一切、粟楠の代紋付けた人には関わらないことだねぇ」 ま、そんな気は起こらないと思うけどねぇ。 赤林は最後にそう呟き、ニッコリと笑いながら、男の腕を曲げた。 怒りは短い狂気である 粟楠会企画「劣情」様に提出させて頂きました。 素敵な企画をありがとうございました! |