腕を思い切り突っ張って突き飛ばした、はずなのに、彼は上半身を少し揺らがせたくらいで済んだらしい。視界は俺の腰を掴むシズちゃんの腕とかケツの穴で繋がったブツなんかを映したが、そのいずれもがどこか現実離れしていた。そのなかで、唇だけが、俺の体の中で唯一熱をもっている。奇妙な感触が残っている。ただ、ただ気持ち悪かった。やわらかくて温かった、と語るその感覚を消すために、俺は唇をぐいぐいと拭った。

「……ふざけるな……冗談もいい加減にしろ!!」

先ほどまであれだけヘタクソだった呼吸が、今では怒りのあまりハァハァと荒いものになっている。これが狙いだったのだろうか。シズちゃんは俺の力が抜けたその瞬間に自身の全てをねじ込んだらしい。圧迫感も、襲う痛みも凄まじいものだったが、なによりもキスされたということが許せなくて、俺はシズちゃんに手首を掴まれるまでずっと唇を拭い続けた。

「……な…なん、だよ…なにか言えば?!」

けして強く握られているという訳ではないが、俺が振りほどこうといくらもがいてもびくともしない。何も言葉を発しず、ただ淡々と手首を掴むシズちゃんに不安になった俺は、ヒステリックに叫んだ。シズちゃんはいきなり俺が大声を出したことにびっくりしたのだろうか、わずかに目を見開いたが、すぐに、口角を上げてにいと笑った。

「……息、出来たよな?」

ふざけんな。
そう叫んだのも束の間、内側から腹の中を抉られる感触が襲った。みちり、肉がちぎられるような、嫌な音がする。

「…ア、ぁあ゛ッ…!!」

悶える俺に構わず、シズちゃんは腰をがつがつと打ち付ける。ごりごり、といった方が正しいかもしれない。元来存在するはずのない路を拓くのだ。俺は肉が削られる感触に、わけもわからずただ泣き叫んだ。

「…あ゛、…いァ、あ゛、ア、」

内臓を押しつぶされる感覚。頭がくらくらして、意識がもっていかれそうになる。意味のない音を吐く俺を見下ろして――、

……残酷に笑ってくれてれば、まだいくらかよかったのに。

シズちゃんは心底辛そうな顔をしていた。眉間に皺を寄せ、歯を食いしばり、まるで何かに耐えるような、そんな顔だった。

「何で君がそんな顔するのさ、泣きたいのはこっちのほうだよ」

そう言ったつもりだったが、言葉になどならなかったかもしれない。つよく内奥を穿たれ、俺は意識を手放した。









どろどろとした泥水のような眠りの淵からはい上がると、見知った天井が迎えてくれた。お世辞にも寝心地が良いとはいえない、ここはソファーだろう。
だるい。全身がだるい。腰だけはずうんと重く、思わず「だる…」とつぶやく。…ああ、ひどい声をしている。けほけほと乾いた咳をすると、シズちゃんがのそりと視界に入ってきた。

「……おはよ」

擦れた、低い声。寝起きだということを差し引いても十分ひどいその声がなにか気にでも障ったのだろうか、シズちゃんは眉間に皺を寄せた。

「……ねえ、なんでまだいるの?俺、君の顔あんまり見たくない。昨日のことは忘れてあげるから、はやくどっかいって」

できるだけ気丈な声を出す。昨日の事はシズちゃんだって忘れたい、人生の汚点のはずだ。そこには優しさのひとかけらさえなかったけど、不本意ではあるがまがりなりにも「セックスをした」という事実は作り上げられてしまったのだ。まあ、幸いにもお互いしかその事実を知っている者はいない。ならばお互い忘れるしかないだろう。というか、被害者である俺が慈悲深くも忘れてやると言っているのだから、加害者のシズちゃんは従うべきだ。それがお互い、一番いい選択肢のはずだ。シズちゃんは少し逡巡したあと、「わかった」と言ってぼりぼり頭を掻いた。
良かった。やっぱりシズちゃんも同じことを考えてくれていたらしい。まあ、選択肢はあってないようなものだし。
俺はうんうんと頷きながら、上半身を起こした。

「まあお互いそれがベストだよね。……じゃあとっとと帰って。しばらく会いたくないから、池袋で俺を見かけても話し掛けたりなんかしないでよ」

情報屋に休みなんかない。休もうと思えばいつだって休めるけれど、情報という「ナマモノ」を扱う業者として、そうなったら終わりだと思う。今日だってたくさん仕事があるのだ。時計を見れば、もうすぐ波江さんが来る時間だった。溜まった仕事を見れば、凍てつくような視線と矢のような言葉を浴びせながらも、優秀な彼女はすぐにその全てを片付けてくれるのだろう。視線で凍り付いてしまわぬように、せめて少しくらいは処理しておこうかと、軋む身体に鞭をうってパソコンデスクに向かう。スリープを解除すると、ぼうっとつっ立っていたシズちゃんが「なあ」と口を開いた。

「臨也」
「……なに?俺、忙しいんだけど」

パソコンの画面を見ていた俺にはシズちゃんの表情などわかるはずもなかった。
カタカタ、キーボードを叩く音だけが部屋に響く。
お互い黙ったまま何分経ったのだろうか。先ほど「臨也」と名前を呼んだ声が鼓膜からふわりと離れそうになった、その時、シズちゃんは再び口を開いた。

「……手前が優しくしろって言ったら、俺は手前を優しく抱いた」
「……は?」

思わず、キーボードを叩く指の動きを止める。すぐに顔をあげたが、シズちゃんはこちらに背を向けていて、その表情を推し量ることさえもできなかった。

「……好きでもねえやつと、セックスなんざ…ましてやキスなんかしねえよ」

吐き捨てるように、荒々しくつぶやかれたそれに何かしら、返答しようと思った。

「…………あ、」

だが、口を開いても、出てくるのは音だけだった。何か言わなきゃだめなのに、考えても考えても答えは出ない。

「……シ…ズちゃん」

無意味に名前を呼ぶと、シズちゃんがおもむろに振り返った。名前を呼ばれたのだから振り返るのは至極当然の事なのだろうが、俺は何故か安心したような気になっていた。

「……なんでもねえ、それだけだ。じゃあな」

シズちゃんはそう言うと再び背中を見せ、玄関に向かって歩きだす。
ぱたん。やがて扉が無機質に閉まる音がして、部屋は静寂につつまれた。滑らかにキーボードを叩いていた指は、まるで何かで固められたかのように動かない。ぽっかりと口を開いているにもかかわらず、そこからは何の音も洩れださない。ひたすらまばたきだけを繰り返す俺はひどく無様だ。今日も昨日も、平和島静雄にどこまでも敗北した日だった。









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お付き合いくださりありがとうございました。


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