実習生と教師 「あっちぃ…」 蒸し暑さで、久しぶりに着たスーツがペタペタと張りつく感触が鬱陶しい。そんな季節、大学の三回になった俺は、母校である来神高校に教育実習にやってきた。 特待生として体育科に入学したはいいものの、卒業後選手としてやっていくつもりは微塵もなく、考えあぐねた結果、先輩の「資格を取れ」という強い勧めで教員免許を取得する道を踏む事にした。この不景気、資格を取ったほうがいいことは百も承知だ。しかし、教員になりたいのかと問われれば、それほどでもないと思う。先輩には教育実習に行ったら変わるからとりあえず行ってみろと言われたが、こうやって母校の土を踏みしめ、懐かしい制服を見、明日から本格的に始まる実習の説明を受けても何の感慨も湧かない。 ―やっぱり俺には向いてねえな……。 ため息を吐きながら廊下を歩く。二階の西向きの窓は昼過ぎの日差しを受け、きらきらとひかっていた。眩しさに目を細めながら、つられるように窓に近づく。 ガラス越しに見えるグラウンドでの授業風景は、明日から他人事ではなくなるのだ。俺は窓を開け、威勢の良い声を出しながらソフトボールに勤しむジャージの群れを壁にもたれながらぼうっと眺めた。 アウト、いやセーフ。甲高い声や、かきん、という小気味のいい音。そして、ねえ、と誰かに呼び掛ける声。…呼び掛ける、声? 「ねえってば、おーい、そこの君、君、君だよ」 振り返ると、身にまとった白衣と対照的な黒髪を窓から入る初夏の風になびかせた男がこちらに向かって話し掛けていた。いたく整った顔をしている。思わず背後を見たが、無人の廊下は消火栓の赤いランプが光っているだけだった。 「……え、俺っすか?」 「うん、君だよ。ねえ、平和島くん…だよね?」 「……そうっす…けど」 そいつは、「さっきからずっと呼んでたのにい」と言って不機嫌そうに頬をふくらませた。やたらと馴れ馴れしいが、俺の記憶が正しければこいつとは面識がないはずだ。もしかして実習生のひとりなのだろうか、とも考えたが、その説はつづく男の言葉によって直ぐに打ち砕かれることとなった。 「俺、折原臨也。折り紙の折に原っぱの原、降臨の臨っていう字になり、でイザヤ、ね。…平和島くんはここの卒業生なんだよね?俺、新任だから知らないよねえ。あっ、実をいうと俺もここの卒業生なんだ。まあ、年も近いし、仲良くしてよ」 オリハライザヤと名乗ったこの男は、どうやら新任の教師らしい。 しかしそれならばそれで、俺に声をかける意味がわからない。理科教師のような白衣は、おそらく体育教師の着るものではないだろう。 「……あ、え…と……俺のクラスの担任の……?でしたっけ」 たしか、担任の先生は話の長い中年の国語教師だった気がするのだが。自信なさげに問うと、折原はあはは、と空々しい笑いをこぼした。 「あは、違うけど?…っていうか、これ。見て分からない?俺、保健のセンセ」 折原の白衣は理科教師のそれでなく、保険医の着るものだったらしい。なんとなく、保険医が校内をうろついているところを見たことがなかったせいか、折原は理科系の科目を担当する教師なのだと思い込んでいたが、なるほど保険医ならば合点がいった。 「…ああ、だからっすか」 「何が?」 「え、俺が体育科だから声かけてくれたんじゃなかったんすか?」 「ふうん、平和島くん体育科なんだ。ねえ自己紹介、してよ。俺もしたんだからさァ」 体育の授業は、体を動かすためのものなのだから当然ケガも多い。保険医にも少なからず世話になるだろう。折原が話し掛けてきた意図はそこにあるのだと思っていたが、折原の反応は想像とまったく違うものだった。俺が体育科であることさえ知らなかったらしい。 俺は訝しく思いながらも、折原に言われるがまま、自己紹介をするために口を開いた。 「……平和島静雄…っす…けど……何で俺の名前知ってんすか」 「やだなぁ、平和島くんは有名人だからだよ。保険医として興味あるなあ……その体とか、ね。あ、もちろん変な意味じゃないよ」 にこり。空笑いを顔に貼りつけた折原を、殴りたくなった。 俺は異常だ。誰よりも、俺が知っている。俺は筋肉を、その力を最大限に引き出し、発揮することができる。ガキの頃からの付き合いのため、さすがにこの年齢になるとある程度コントロールできるようにはなったし、この力のお蔭で進学できたのだから感謝はしているが、誰かを傷つける危険性のあるこの力が、俺は嫌いだった。そしてなにより、この力に興味を持つような奴が嫌いだった。俺を見る目が、違うのだ。化け物を見るような目で俺を見る。折原は至極愉しそうに俺を見ていた。どうせ、俺のことを珍種か何かだと思っているのだろう。 「…平和島くん?」 俺は無言で、ニヤニヤ笑いを貼りつけた折原に背を向けて歩き出した。背中に折原の声が響く。 「機嫌そこねちゃったか。…まあいいや。ねえ静雄くーん、怪我したりは無いと思うけどー、怪我させちゃったりしたら保健室においでよねー」 ちゃあんと診てあげるからさ― まだ何か大声で呼び掛けていたようだが、俺は耳をふさぎながら階段を駆け降りた。 ―怪我をさせたり、だと?……ふざけやがって。 一階まで降り切った俺は、昇降口の大きな扉から、のんきに玉遊びをするジャージを見つめて唸るようにつぶやいた。 「絶対、だれも保健室になんか送らねえ」 |