じゅぷり、じゅぷり。
思うがまま、感じるがままに指を動かして、すっかり勃ち上がった自身を上下に扱く。それだけの動作をただただ、バカみたいに繰り返す。

「…ふ、……は、あ」

じゅぷり、じゅぷり。
成人していてもいなくても、ある程度の年齢に達した男ならたぶん、いやほぼ確実に、経験したことくらいはあるだろう。今俺が耽っている行為は、いわゆるマスターベーションというやつだ。何かを生産するわけではないが、一度その快感を味わってしまうとやめられなくなるのが人というもので、男というもので。もちろん俺も例外でなく、何週間かに一度、この非生産的な行為をせずにはいられなかった。

「ん、…ん、ん、はっ…」

淫靡な水音が室内に響く。支配する。広い部屋をも、俺の脳をも。

「んっ…あっ…」

じゅぷり、じゅぷり。
こうなると、絶頂まではすぐだった。手の動きをいっそう激しいものにし、頭のなかがだんだん、ぼんやりと靄がかかってきたようになった、その、瞬間。
ガシャン、なんて生ぬるいものではない、爆弾でも落ちたかのような爆音が耳をつんざいた。

「いーざーやーくーーん?」

その爆撃音はどうやら玄関の辺りから聞こえてきたらしく、爆弾を落とした戦闘機…もとい、シズちゃんがずんずんとこちらに歩いてくる様子が見えた。
―やばい。
脳内で人員を総動員した結果、出された「今俺がするべき優先順位、一、とにかくしまう」という結論に従って、俺は慌てて自身をズボンの中にしまった。
「二、証拠隠滅」まで辿り着きたかったが、生憎時間が無い。仕方なく、汚れた手を後ろに回した。
下半身はデスクの陰に隠れていたから、ばれてはいないと思う。思いたい。

「…や、あ、シズちゃん…」
「お前なあ、今日という今日はなあ、確実に、完璧に、まるっと殺してやるよ…」

シズちゃんのいつもと変わらない態度は気付かれてはいない事を表していた。
ふう。あ、こらこら。
ちょっとした安堵のため息とともに気を抜きそうになった俺を叱咤する。
そう、状況は変わってないのだ。とにかく、ここは今までと変わらない折原臨也を演じることが重要だ。新羅風にいうと、喋喋呶呶としていなくてはいけない。

「…なに、まるっとって。なんだか、ご機嫌ナナメだね。もしかしてシズちゃんのお家にイタズラしたこと怒ってんの?」

精一杯、いつもどおりに振る舞おうと努めつつ、カニ歩きで台所へと移動する。とにかく例の臭いに気付かれる前にこの手をなんとかしたかった。「なんか臭くねえか?」だけなら言い訳はできる。イカをさばいていた、だとかちょっと漂白してた、なんて言い訳は通用しないかもしれないが、なんとかしてみせる。しかし、この、精液にまみれた、この手。こんなものが見つかれば言い逃れなんて、さすがの俺でもできない。
そう思っての行動だったのだが、運命とはなんて残酷なんだろう。
シズちゃんはなぜだか台所の方へと移動した。

「…ちょっと…そのへん、のいて」

じわり。額にいやな汗が浮かぶ。この俺、折原臨也がオナニーしてたなんて、絶対にばれたくなかった。ヒトにはイメージというものがある。俺が人生をかけて築いてきたお綺麗なイメージの塔を、こんな所で、よりによってシズちゃんを目撃者としてデストロイするなんて死んでも嫌だった。
台所で手を洗い、隙を見て消臭スプレーをシュッとやればなんとかなる。大丈夫、難しい事じゃない。そう自分に言い聞かせながらシズちゃんを睨み付けると、シズちゃんは「ああ?」とどすのきいた疑問の声をあげた。

「…俺が、今からそこに、いくから」
「はあ?勝手に来いよ」
「…シズちゃんがいるとヤダ」
「…なんでだよ」
「邪魔だから。どいて」
「ああ?…つうか、何焦ってんだ」
「どいてってば!」

お互い一歩も引かない…というか、てこでも引かない俺を訝しみ敢えて引かないシズちゃんは、焦りを隠せない俺の反応を楽しんでいるのだろう。口角をあげてにやりと笑った。そんなシズちゃんに身の危険を感じた俺は、一目散に玄関へと走った。


「おい、待てよ!」

ぱし。

「あ、」

シズちゃんに、手を、掴まれた。
そう認識するより早く、なんとも間抜けな声が洩れ出る。

「あ?」

おかしい。
玄関へ続く廊下から台所へは結構な距離があるはずだ。ちょうどその中間あたりに位置する俺のデスクから玄関へ向かうのと、台所で腕を組んでいたシズちゃんが俺を追い掛けるのと、玄関に着くのはどちらが速いでしょう―なんて小学生でも簡単に解ける問題だ。なのに答えは例え有名大学の教授であろうとたどり着けないだろうものだった。なぜかは分からないが、とにかく、シズちゃんの手は俺がひた隠しにしてきた、精液にまみれた手を掴んだ。


俺が初めて、平和島静雄に「負けた」日だった。






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