私は不思議でならなかった。なぜ気になるのかはわからないが、とにかく不思議で堪らなかったのだ。 静雄先輩と男が去った後の応接室で、取り残されたトム先輩は自らの肩を叩きながら大きなため息をついた。応接室へと踏み込むと、なんとなく、きな臭いにおいがするような気がした。 「……トム先輩、説明を希望します。数量が夥しい一万円札、何故存在するのか疑問です」 「……静雄には、内緒にしておいたほうがいいと思うんだけどよ…ヴァローナ、静雄に言わないって約束、守れるか?」 「肯定します。断固死守することを宣誓します」 ガクガクと首を上下に動かし、肯定の意を伝えると、トム先輩は「くれぐれも頼むな」と困ったように笑った。 「……さっきの男な…静雄とすっげえ仲悪いんだが」 「…空中を浮遊する自動販売機は記憶に存在します。静雄先輩がその際にイザヤと呼称していた事を知っています」 「そう、その…静雄が投げた自販機とか…ポストとか、標識とかガードレールとか……静雄は社長が肩代わりして給料から引いてる、っつってたんだけどよ…どうやら臨也が全部払ってたらしいんだ」 「静雄先輩とイザヤ、関係が良好でないはずです」 「そうなんだけどなあ……臨也とは俺も話した事なんて全然ねえし、よくわかんねえや」 「……謎です。不明瞭です。…イザヤに説明を要求します」 「あっ待て、ヴァローナ!危ねえって」 私は不思議で堪らなかった。なぜ気になるのかはわからないが、居てもたってもいられなかったのだ。 イザヤと先輩の気配を追い、会社を出る。しばらく走ると、先輩が投げたであろうコピー機が目に入った。 ―コレの弁償もイザヤが行うのだろうか。 私は気分が落ち込んでいくのをどこか客観的に感じた。 灰色の内臓を曝け出しているコピー機を過ぎると、気配は二つの方向に分かれてしまっていた。 そして、私は迷う事無く、きな臭い方へと走った。 *** ファーのついたコートがゆれる。もう夏が近く、気温も30度近くあるためか、見ているノースリーブの私までなんとなく暑い。とんだ公害だ。長袖のコートというのは日本のファッションなのだろうか…? 心中で首をかしげされながらも、尾行していることを気付かれないよう細心の注意を払う。イザヤはスキップしながら人通りの少ない裏路地へと進み、私もそれを追った。長いビルの影に足を踏み込んだ、その瞬間。イザヤはふいに鼻歌まじりのスキップを止めた。思わず身構えたが、イザヤはこちらを振り返らず、雲一つ無い空を見上げて呼び掛けた。 「ねえ、俺をつけてどうするつもりですか?ロシア人のお嬢さん」 「…感知していたのですか」 「伊達に危ない橋を渡ってないのでね」 くるり。含み笑をもらしながらイザヤが振り返ると、少し遅れてコートがふわりと風になびいた。 「俺に何か用でも?」 「……静雄先輩によって投没した自販機の代金を支給するのは不明瞭です。イザヤと静雄先輩の間柄が険悪であることは明白です。よってますます不明瞭です。説明を要求します」 イザヤは私の質問を聞いて、一瞬目を見開いたが、やがてそれを三日月のような形に細め、鼻で笑った。失礼な奴だ。先輩と同様、私もイザヤの事は好きになれそうにない。 「……ヴァローナさん、日本語ヘタクソですねえ。俺、ロシア語も話せるけど?」 「…日本語を話す事は可能です」 「……そうは思えないから言ってあげてるんだけどなあ…」 「ッ本題に帰還する事を要望します!」 ばかにするようなセリフに、私は思わず語調を強める。イザヤはふてぶてしい態度で「おーこわい」と、さほど恐怖を感じられない呟きをもらした。 「で?…えーと、何だっけ」 「…静雄先輩によって投没した自販機の代金を」 「代金を支給する、不明瞭です。イザヤと静雄先輩の間柄、険悪であることは了承です。よってますます不明瞭です。説明を要求します……だよね?」 どうだ、と言わんばかりのなんとも憎たらしい笑みを見せるイザヤを、思わず蹴り倒したくなった。覚えているなら聞くな。自らの記憶力と、私の日本語をばかにするようなイザヤに私は苛立ちを隠せなくなった。静雄先輩が自動販売機を放り投げるのも理解できる。 「…気分は良好でありません」 「やだなあ、ちょっとからかっただけじゃない。そんなに怒らないでよ」 イザヤはからからと笑い、ポケットに手を入れながらジャケットをはだけさせた。手を広げたいならばポケットから手を出せばいいのに、全く意味のわからない行動をする。 「質問を把握しているならば好都合です。説明を要求します」 「要求されちゃってもねえ…ヒミツとしか言えないかな…」 「隠す理由がわかりません。私は焦燥しています」 「……じゃあこうとでも言っておこうかな――」 私は焦燥した。 疑問は解決した。しかし、新たな疑問が生まれた。なぜ焦燥するのかわからないのだ。 私はイザヤが嫌いだ。先輩も……イザヤが嫌いだと思う。イザヤは―― 「ヴァローナ」 低い声が私の名前を呼ぶ。振り返ると声の主―静雄先輩が息を切らし、道路標識を片手にこちらに近づいてくるのが見えた。 「……この辺りによぉ…あのクソノミ蟲が来やがらなかったか…」 「……先輩」 「あぁ?来やがったのか?!どっちに行った!」 「……いえ…特筆する事は存在しません」 「………そうか…引き止めて悪かったな……どこにいやがるんだ…いざやくんよぉ…」 私はとっさに嘘をついてしまった。 そんな事など露ほども知らない先輩は、イザヤ、と、地鳴りのような声を響かせてズシンズシンと歩く。その広い背中を見つめていると、どこからともなくイザヤの声が聞こえてくるような気がした。 「Потому, что я его люблю.」 もっと日本語を勉強しよう。もっともっと上手になって、そしてあいつに言ってやるんだ。「私のほうが」と。 |