全身を襲う筋肉痛のようなだるさと、ぼうっと霧がかかったような思考回路と、下がろうとする瞼。
ああ、眠い。
新宿の街がだんだんと人工的でない光を得てオレンジ色に染まっているのを窓という名の大きなフィルター越しに見ながら、俺は大きく伸びをした。朝焼けなんか久々に見た。今日は傘を持っていかないとな、と、たいした働きは期待できないが、頭のメモ帳に書き留め、こきこきと首を鳴らした。
今日は九十九屋と会う日だ。
月に何度、いつ、どこで、などの取り決めは特にない。約束のほとんどが三日前にチャットルームで告げられるものだ。
初めて会うことになった時はひたすら緊張した。正直、会うことに抵抗がなかったと言えば嘘になる。しかし、あらゆる情報を網羅する九十九屋と会う事は損にはならないだろうという事で引き受けたのが全ての始まりだった。
そうして待ち合わせを重ねて(逢瀬なんて言葉は使いたくない)もう何回目になるだろうか。今回も、待ち合わせで指定された場所はかの池袋だった。池袋という街を愛していると公言する九十九屋らしいといえばそうなのだが、俺ができるだけ池袋に行きたくない事を知っているにも拘らず、毎回毎回懲りもせずにそこを指定してくるのだからつくづく性格が悪い。

「それも九十九屋らしいといってしまえばそうだろうけど」

独りごちながら、洗面所へと移動して顔を洗った。鏡の中の俺は憔悴しきったとは言わないが、徹夜明けだとわかる程度にはやつれているように見える。徹夜が辛くなるなんて、もう年か。自嘲の笑いを浮かべながら、気合いを入れるようにぎゅうと瞳を閉じた。ずっとPCの画面を見ていたせいか酷く目の奧が重い。夜通しの情報収集はたいした実を結ぶ事もなく、俺は大きなため息を吐いた。
会う事が決まってから実際に会うまでの三日間、奴の情報をひたすらに探すことがお決まりになっていた。毎回、多少の無茶も厭わずに様々な方法で情報を集めるのだが、虚しくも、結局のところ、今回も全くもって進展は無かった。雲を掴むよう、とはまさにこの事だ。まったく実態を掴めないとは言え、この俺が、情報屋の名にかけて、必死で、奴のしっぽを追い掛けたにもかかわらず……だ。

(ああ、苛々する)

俺は冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出して一気に飲み干した。

九十九屋の指定した時間は午前6時。ディスプレイに映し出されたその文字を見たときはジジイかと心中で嘲ったが、よくよく考えてみると、なるほど、その時間なら仕事に支障は出づらいだろう、と納得した。情報屋という「生物」を扱う俺にとって、より多くの人間が活動している時間、それがすなわち俺の仕事の稼ぎ時でもあるのだ。
ちらりと時計を一瞥し、外出用のコートに袖を通しながら、ふあ、と大きく口をひろげて欠伸をする。満身創痍の瞳から一滴の雫が流れ落ちた。






朝の6時に開いている店なんて限られているから、当然待ち合わせ場所はファーストフード店になる。店内にはビジネスマン風の男が二人と、ぽけっと虚空を見つめるラフな格好をした男が居た。迷うことなく後者の男へと近づく。大きな窓に面したその席の隣に座ると、その男はおもむろにこちらを見、そしてニヒルに笑んだ。

「……よお折原。久しぶり」
「たかが何週間かぶりだろ」
「どうだ、その何週間かの間にちょっとくらい俺の事は調べられたか?」
「別にお前の事なんか調べてない」
「嘘つけ。何かわかったか、なあ、折原」
「黙って」

ニヤニヤと意地の悪そうな笑みをこぼしながらしつこく調べられたのかどうかと聞いてくる九十九屋はチャットと変わらず、どこまでも気に食わない男だ。

「相変わらずツンツンしやがって。ほら、愛想くらい振りまけ」
「お前にそんなもの渡して何になるんだ」
「そうだな、お前が調べられなかった事の一つくらいは教えてやってもいいぞ」

からかうような口振りがいちいち俺の神経を逆撫でする。俺は腹いせに何か食べようか、と思い立ち、「注文してくる」と言って九十九屋に背を向けた。瞬間、手首を掴まれる。

「……なに」
「奢る。呼び出したのは俺だしな」
「いいよ。こんな事であんたに借り作りたくないから」
「じゃあ金は払え。何がいい?」

代わりに注文する程度の借りならいいが、なぜこんな事をしたがるのか、はなはだ不思議だ。訝るように九十九屋を見ながらも、睡魔に取り憑かれたままの俺は立ち上がるのもおっくうで、ホットケーキとミルクティーのセットを注文した。

「わかった」

九十九屋は俺の注文を聞くやいなや、椅子にかけられたコートのポケットから黒い長財布を取出してレジに向かった。早朝のレジは空いているので、すぐに帰ってくるだろう。俺はその間する事もなくて、窓から人間を観察する事にした。こちらは、早朝とは言えども駅前というロケーションのせいか、何人かの人間を見ることができる。俺は視線を右に左に走らせ、やがて一人の少女に目を留めた。

―ああ、あの子はおもしろそうだな。道に迷ってるけど、迷ってるっていう自分を認めたくないなんて思ってる、そんな子だ。きっとプライド高いんだろうなあ。人に聞けばすぐに解決するのに、それができないで同じところをグルグル回ってる。ホント、傑作―…

「折原」
「あ」
「聞こえてなかったのか、ほら、ホットケーキとミルクティー。合ってるよな」
「ああ、どうも」

いつの間にか九十九屋が戻ってきていたようだ。小さな宅配ピザの箱のような容器に入ったホットケーキが甘い匂いを放つ。アイスティーにミルクとシロップを入れて掻き混ぜながら、俺は何度目かのあくびをした。

「……なんだ、折原、寝不足か?」
「あんたには関係ないだろ…これいくらだった?」
「あーいくらだっけかな」
「そういうのはいい。440円だっけ。おつりいらない」

とぼける九十九屋を一蹴し、マフィンとドリンクの乗ったトレイに財布から取り出した1000円札を置く。九十九屋はそれを財布にしまい、律儀にもジャラジャラと小銭を取り出して俺のトレイに乗せた。

「いらないって言ってんのに」
「借りは作らない主義なんでな」
「作らせようとした癖に」
「作られるのは大歓迎、特にお前みたいなのには」
「聞いてない」

ミルクが十分混ざりきった事を確認して蓋を被せ、ストローを刺す。ちゅうとそれを吸うと九十九屋も俺に倣うようにストローをくわえた。九十九屋の薄い色の唇にはさまれた白いストローを、濃い色の液体が淡く染め上げていく。九十九屋はやがて白色に戻ったそれを唇から離し、「徹夜したな」と、まるでつぶやくように言った。

「は?なに?」

脈絡もくそもない言葉に動揺する。いきなりということもあるが、それが真実だということが、俺を驚かせた最大の理由だろう。

「眠そうだからな」
「別に眠くないけど」
「嘘だな」
「……うざい」
「眠くなったら俺にもたれていいからな」
「ふざけるな。ねむくな、って…いっ…て」

それはまるで、道路を歩いていると突然眼前にあらわれた崖から足を踏み外したかのように、突然で、急峻な変化だった。
途端に舌が回らなくなる。瞼が先ほどの比ではないほどに、重い。なんとなく泥酔した時に似ている。
九十九屋は、そんな俺を、まるでなにかを観察するかのようにじっと見た。

「さすが即効性を売りにしてるだけあるな」
「おまえ…なにを」
「何もしないさ。ただお前が眠そうだったから、ちょっと寝かせてやろうと思ってな。睡眠薬入りのガムシロップがたまたまポケットに入ってたから使ってみた。……お前、砂糖無しで飲めないのか」

たまたま睡眠薬入りのガムシロップがポケットに入っているなんてあり得ない。ふざけるな、

「…つくも、や…ただ、で、…すむと、」

眠ってたまるか。そう確かに思っているのに、だんだんと視界が狭まってゆく。

「……はいはい。おやすみ、折原」

九十九屋はあしらうようにヘラヘラと笑いながら俺のホットケーキにたっぷりとハチミツをかけ、そして、大きく口を開けた。

はたして九十九屋は俺のホットケーキを食べたのか、それとも寸前で食べるのを止めたのかはわからない。俺はまるで黒砂糖を溶かしたような眠気の湖に溺れてしまったからだ。ファーストフードのロゴの入った窓という名のフィルター越しにオレンジ色に染まった新宿の街を見ることもかなわず、閉じた瞳から一滴の雫が流れ落ちた。









サニーシロップ


九十九屋×臨也企画「アイリスは午前3時に眠る」様に提出させて頂きました。
素敵な企画をありがとうございました!




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