来神捏造 高校二年の夏休みなんてのはみんながみんな、受験のある来年の分まで遊ぶなどと言って、毎日のスケジュールを埋めるものらしい。やれ海だ、やれ海外旅行だと、何を自慢したいのかわからないが、臨也が教室の隅の机に腰掛けて門田を相手にベラベラと話していたのを思い出す。ムカつく。ノミ蟲はムカつくが、夏休みが楽しみなのは俺も例外でなく、毎日とは言わないがそれなりに予定を入れていた。中でも家族旅行は一番の楽しみだった。 そんな、夏休み前。担任に呼び出されたのは進路指導室だった。校長室には何度も入った事はあるが(主に備品破壊の謝罪で)、そこに入ったのは初めてだった。担任は会議か何かで遅れて来ると言っていたので、そこには誰も居なかった。手探りで電気を点けると埃っぽい部屋の壁につけられた本棚に背表紙の赤い分厚い本がずらりと並んでいることがわかる。特に進学の意志もない俺はそれらをぼんやりと眺めながら、パイプ椅子に腰掛けて担任を待った。 五分ほど経っただろうか。 ガラガラとドアが開いて初老の担任が顔を出した。 「遅れてすまん」 「…いや」 担任はいつもカゴを持ち歩いていた。そこにはたいてい授業の資料やらが入っていたのだが、今、そのカゴには水色の封筒が一つ入っているだけのように見える。それならばカゴなど必要ないだろうとも思ったが、そういえばいつか、このカゴは俺の一部なんだと言っていた気もする。そんな担任は己の体の一部を机の上に乗せて、俺の前の椅子に腰掛ける。おもむろに水色の封筒を取出し、俺に渡した。 「なんすか、これ」 「成績だ」 「…はあ」 成績は今度の二者面談で渡されるんじゃなかったんですか。 そう問おうとすると、担任がぐいと顔をこちらに近付けた。思わず椅子に座ったまま後退るとギシギシとパイプ椅子が軋んだ音を立てた。 「平和島、お前な。このまま行くと留年だぞ」 留年だぞ。担任の低い声が頭の中で響く。そういえばクラスの女子が担任の声はやばいと言っていた。政経の教師であるそいつが理系の俺のクラスの授業を受け持つ事は無いが、ホームルームの度に女子はこそこそと何かを話していたような気が―…じゃなくて、留年。 いくらなんでもそれはないと思っていた。勉強ができない事は認めるが、バカはバカでも留年しないバカだと、…誇りには思っていないが、まあ、自負していた。もちろん根拠があるわけではないが、なぜだか俺は、留年は絶対にしないと確信していたのだ。 「見ろ」 担任が険しい顔で封筒を開けるよう促す。すこしわなないている指で封筒を開けると、そこには成績表と書かれた白い厚紙があった。心臓の鼓動がうるさい。担任と校長の印が押されたそれをペラリとめくった。めくって、目を通し、それを封筒に戻した。担任が遠慮がちに声をかける。 「…見たか」 「見ました」 「どうだ」 「…いや…なんつうか…、マジっすか」 「マジだ」 俺は理系だ。数学と理科は一応の得意科目ではある。その数学と理科は4だった。まあいい。副教科はまちまちで、体育は5、家庭科が2、美術が2…他は3だった。まあ、それも問題ではない。世界史と倫理は2だ。まあいいだろう。 問題は英語と国語だ。 「平和島、知っているとは思うが来神は1が二つついていたら留年だからな」 英語と国語は、1だった。 「…失礼しました」 ガラガラと扉を閉め、進路指導室を出る。グラウンドからは野球部の活気の溢れる声が響いている。鞄に入れた成績表が重い。鞄には筆箱と弁当箱と財布とそれくらいしか入っていないはずなのに、やけに重かった。 もはやスリッパと化した上履きをパタリパタリと響かせて階段を降りる。 留年だぞ、平和島。担任に告げられたその言葉が頭の中でぐるぐるととぐろを巻いているようだった。はあ。大きなため息を吐く。階段の踊り場に着いたとき、背後、いや、頭上から不意に明るい声が響いた。 「あ、シズちゃんだ」 シズちゃん。俺をそんなふざけたあだ名で呼ぶ奴は一人しか居ない。振り返ると臨也が片手をズボンのポケットに突っ込んで不敵に笑っていた。学ランが窓から入る風にはためく。臨也は年中、何を考えているのかは知らないが学ランを脱ぐことはなかった。 「手前…門田と帰ったんじゃなかったのかよ」 「ドタチンは他校の人に絡まれてどっか行っちゃったよ。新羅は即効で帰っちゃった」 「…そうか」 ここで階段をぶち割って臨也をぶっ殺してやってもよかったが、あいにくそんな気分にはなれなかった俺は、臨也に構わずに階段を下った。 「え、あれ?シズちゃん?」 そんな俺の様子に拍子抜けしたのだろう、俺と同じくスリッパ化した上履きをパタパタと響かせて、臨也が階段を駆け降りる。のろのろと歩く俺を抜かし、前から俺の顔を覗き込んだ。 「…邪魔だ」 「どしたの、元気ないね」 「手前に、ッ…!?」 一瞬だった。「手前に会ったからだ」そう言おうと口を開いた瞬間に、臨也のナイフがきらめいた。咄嗟に身を引いたが、臨也の目的は俺を傷つける所には無かったらしい。俺の薄っぺらい鞄は臨也の手の中にあった。 「!!…ンのノミ蟲野郎が…!」 力任せに階段の手摺りを引き剥がし、臨也に向けてぶん投げる。臨也はひらりと学ランをはためかせてそれを躱した。 「おっと…何を焦ってるのさ」 「ふざけんな、返しやがれ!」 「…やたらとコレに固執するんだね。どれどれ?」 「バッ手前、やめろ!」 「ん?何コレ」 臨也が水色の封筒を手にすると同時に、壁のコンクリートを、むしりとった。コンクリートの強度はかなりのものだということは知っていた、というかわかっていたが、それでも、そうせざるをえなかったとしか言いようが無い。コンクリートをむしりとって、それを臨也に投げつけた。臨也は大きく後ろに跳躍して、それを避ける。臨也はそのまま一階まで駆け降り、下駄箱の方へ一目散に逃げた。 「待ちやがれ!」 急いで臨也を追う。靴を履き替える事もせずに走る。走る。自販機の並ぶ休憩スペースを抜けて校門まで走れば、夕暮れの街を背景にした臨也がつっ立っていた。右手には白い厚紙。それが何かなんて、目を凝らす必要はなかった。 「…シズちゃん」 「……返せ」 「ねえ、シズちゃん」 ずかずかと臨也に近づいて、臨也の手から成績表を奪う。びり、と嫌な音がした気もするが、気にしない事にする。 「シズちゃん」 「…んだよ、うっせえな」 「留年するの」 「…手前には関係ねえだろ」 臨也の肩から鞄をひったくり、乱暴にそれを肩にかける。靴を履き替えようと臨也に背を向けると、瞬間、背中に痛みが走った。 「ッ…あ゛ぁ?」 振り返って視界に捉えた臨也の手のナイフには真っ赤な血が滴っており、それが俺の背中を切り裂いた事は一目瞭然だった。逆光で臨也の表情は良くわからない。臨也はうつむきながら「ねえ」と話しだす。 「シズちゃんはバカだから留年するんだよね」 「…手前、ケンカ売ってんのか」 「バカが治ったら留年しなくていいんだよね」 「…おい」 「バカは死なないと治らないって、言うよね…?」 だから俺が殺してあげる。 そういって不敵に笑った臨也に、「俺に留年してほしくないのか」と聞くべきか聞かないべきか迷う暇もなく、臨也のナイフが俺の手の白い厚紙をズタズタに切り裂いた。 |