黒沼青葉は「大人」というものが好きではなかった。それには兄の存在というものが大きく関係したと言える。兄の存在は青葉に著しく影響し、やがて青葉は年長者というものはおよそ尊敬などできるはずもないものだという、確信に近い考えを持つようになった。
そして、今、青葉の最も嫌う人間もまた、「大人」であった。
青葉がその「大人」―臨也の事務所に来たのは、一度こいつの顔を見てやろうという、思いつきに近いものだった。インターホンを押すと、こちらが名乗る前に臨也が「どうぞ」と言ってマンションの扉を開いたのには驚いたが、何よりも、シックなドアを開いた臨也の外見が青葉が想像していたのよりもかなり見目麗しかったことは、青葉を思わず玄関先で固まらせてしまうほどの驚きを与えた。

「ごめんね、黒沼青葉くん。ちょっと急ぎの仕事があってさ、しばらくそこで待っててくれる」
「ああ、いえ。急に押し掛けたのはこっちなんですし!」

にっこりと、いっそ不気味なほどに整った微笑みをたたえた臨也が、右手に持った書類の束をぴらぴらと振る。内容を盗み見てやろうとも思ったが、ここはあくまでもアウェイだ、と自分に言い聞かせ、おとなしく出された紅茶をすすった。
大きな窓からこぼれる光が、臨也の艶やかな黒髪に透ける。純粋に綺麗だなあと思った自分がなんだか悔しくて、カップをソーサーに戻して爪を噛んだ。親指のそれはもはや白い部分を無くしていたが、あまり気にならなかった。

折原臨也について知ったのは、いつだっただろうか。ブルースクウェアという組織を作る過程だったかもしれない。あまり思い出せないが、好印象を持たなかったことだけは確かだ。
ハイエナ。
まさしくその言葉の通りだった。臨也は青葉が大切に大切に守っていた火種を、狡猾にもかっさらってしまうのだった。この街に火種をつくるというその発想は青葉と似ているのかもしれないが、それは認めたくなかった。青葉はそれほど自分が嫌いではなかったからだ。
―臨也の奴。
無意識に向けていたこちらの睨むような視線に気が付いたのか、臨也はふいにこちらを向いた。そして、人差し指を指し、「爪」とみじかく言った。

「…なんですか」
「爪、噛むの。よくないよ」

マウスを片手ににこり、と柔らかく笑う臨也に愛想笑いをくれてやり、ゆっくりと指を離す。爪は歯形でぎざぎざになってしまっていた。

「臨也…さ、ん」
「あっ、なにその『普段は呼び捨てです』みたいな呼び方」
「、気にしないでください」
「あは、気にしないことにするよ。かわいい後輩の頼みならね」
「後輩、」

―こいつも俺を子供扱いするのか。
そう思うと、なんだか不思議な感覚が胸を締め付けた。
くそ。年齢という、どうしようもないものに対して憤りを感じるなんてなんとも馬鹿らしい事だが、そうせざるをえなかった青葉は、再び無意識に爪を噛んだ。

「こら」

ぱし。渇いた音が響く。いつの間にか青葉の目の前には臨也がしゃがんでおり、爪を噛んだほうの腕は臨也によって唇から引き離されていた。そして、臨也の右手には爪やすりが握られていた。

「ほら、ぎざぎざになってるじゃん。貸して」
「ちょっ、何してんだ、アンタ」
「あっ、今の素ー?」

不快を隠そうとしない青葉を気にも止めず、臨也はざりざりと小さな音を響かせ、青葉の爪を整える。時折手を止めて、様々な角度からその完成度をはかる度に、黒髪がさらりと揺れた。

―こいつは、何を考えてんだ?
俺の爪を整える理由はどこにある。必死に考えをめぐらせるものの、答にはたどり着かず、臨也が「完成」と小さな歓声をあげるまでずっとそのままの体勢で固まっていた。

「はい、きれいになったよ」

―大人は何を考えてるのか全くわからない。だから苦手だ。

青葉は、早く大人になりたい、臨也と肩を並べたいと、心の中で強く願いながら、にこりと微笑む臨也の顔を見ないようにして、「…意味わかんねえ」とつぶやいた。



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