解放されたのは、今よりずっと前だった。写真を何枚も撮られて、代わる代わるに何人もの男を咥えさせられる地獄はあれから何時間も終わらずに、臨也は今の今まで気を失っていたのだ。 ―…臭い。 すえた臭いが鼻につく。身体中が痛くて、だるかった。ごろりと転がって仰向けになってみると、視界の端に、もう着れないであろう服の残骸がうつった。唯一無傷であるといえる学ランに手を伸ばすと、不幸中の幸いとでも言えようか、ポケットには手付かずの財布と携帯が収まっていた。 どのみち、自分一人では満足に動けない。誰かに助けを求めたいものだが、家族にこんな姿見せたくないし、弱みを曝け出せる友達などいない。新羅や門田を呼んでもよかったかもしれないが、今の臨也は同情されることが何よりも嫌だった。他に誰か居ないかと考えを巡らせると、金髪の男が脳裏によぎる。 ―…ああ、シズちゃんか。 彼なら見捨てるかもしれないが同情なんかしないだろう。入学そうそうあれだけの事をしたのだから、恨まれているに決まっている。静雄を呼んだところで、臨也の状況は変わらないかもしれないが、臨也はそれでもいいと思った。 携帯を操作して、静雄の番号に電話をかける。何回かのコールの後、だるそうな声で「はい」と応じる静雄の声がした。 「…あの、もしもし?どちらさまっすか」 「…ずちゃん」 「……」 「しず、ちゃん」 「…ああ?…ッテメェ、何の用だっつーか何で俺の番号知ってやがる!」 「…たすけて」 「…ああ?おい、どういう」 「グラウンドに、いるから」 「……」 「…」 「…俺に、手前を助けろってか」 「…こなくても、いいよ」 「……」 ぶちん。つーつー、と単調な音が耳に届く。 たぶん、彼は来ないだろう。そう思っていても、心のどこかで期待している自分はなんて都合のいい人間なんだろう、と考えると鼻の奥がつーんとした。 ―俺が次にシズちゃんに電話するとしたら、嵌めるためだろうからなあ。こんな電話、信じないだろうなあ。 携帯の待ち受け画面を見つめる。時刻は日付を変わろうとしていた。静雄のあの身長を考えると、もう寝ているかもしれない。明日、学校で「ノミ蟲が昨日助けに来いって電話してきやがった、行くわけねえだろうが」と笑い話にされるかもしれない。まあ、静雄はそういう事は言わないだろうが、今まで自分のやってきた事を考えると当然の報いだと思った。考えれば考えるほど、いやな方向に思考が進む。静雄は来ないとして、何か他の方法を考えよう、と電話帳を操作した、その時。 「ノミ蟲ィ」 グラウンドに、静雄の声が響いた。ガシャンとフェンスを壊したような音がする。 「居るのか、居ねえのか」 ここに居る、と叫びたかったが、臨也には叫ぶ力など残されていない。仕方なしに携帯を操作して、リダイアルのボタンを押した。 しばらくコール音が二方向から響いた後、静雄が通話ボタンを押した。 「…騙したのか?」 「…騙してない。倉庫の、裏のとこにいる」 「…うぜえよ。感謝しろ、来てやったことに」 「…ほんと、来るとは思わなかった。来るの早すぎ」 じゃりじゃり、と砂を踏む音が臨也に近づく。 「来いっつったのは手前だろ」 「…俺が来いって言っても、来ないと思ってたからさ」 「…じゃあ何で電話したんだよ…」 「……それは」 じゃり。静雄の足音が止まり、眼前に彼の脚がそびえ立つ。 「シズちゃんなら俺に同情しないと思ったからだよ」 臨也の姿は、臨也を心底嫌っている静雄の目から見ても酷いものだった。艶やかな黒髪は汗と精液で乱れ、学ランの下の白い肌には赤紫の無数の痣がある。臨也の周りに散る水溜まりが行為の激しさを物語っていた。充満する臭いに、静雄は顔をしかめる。 どこかうつろな瞳で静雄を見つめる臨也は、同情しないで、と繰り返した。 ―同情するなって…これは。 余りの悲惨さに、静雄は言葉を失い、どうすればいいのかもわからず、ただ呆然と立ち尽くす。 「…助けろって、」 「うん、俺もどう助けてほしかったのかわかんない」 沈黙が、重たい、どろどろとした沈黙が二人の間を流れる。静雄は痛々しい体を見ていられなくて、羽織っていたシャツを臨也に放り、臨也がそれに腕を通すのを手伝ってやった。 「何でこんな事になったか聞かないの?」 「……詮索はしねえ方がいいだろ」 「…聞きたい事があるなら、聞けばいいよ。夜中にわざわざ来てくれた代償として、それくらいは応える」 「…いや、」 誰に、どうして、何を。聞きたいことは山ほどあったが、それをこんな状態の臨也に問うなんて事は静雄にはできるはずもなかった。 「聞かないの?」 「聞かねえ」 静雄は、強がってはいてもぐったりと力の入らない様子の臨也を持ち上げて、背に背負った。一刻も早くここからは離れたい、と臨也が全身から訴えているような気がしたからだ。 「…どこ行くの」 「…学校、しかねえだろ。家帰るのは嫌だろ」 「…でも、入れないでしょ」 「…壊す」 静雄の広い背におぶられながら、臨也は静雄の横顔をじいと見つめた。形の良い眉はあいかわらずしわを刻んでいる。同情するな、と臨也は言ったが、何だかんだ心根の優しい静雄はボロボロの臨也に心を痛めずにはいられなかったのだろう。 臨也は静雄の背で少しだけ泣いた。何も聞かない静雄の優しさが痛かった。 |