病的記憶喪失シリアス。大丈夫な人のみどうぞ













空に虹が浮かんだ。
どこか遠くの水平線から伸びる七色の架け橋は、今すぐ飛んでいけば触れることができるんじゃないかと思えるほど、くっきりと雨上がりの冷たい空気の中に姿を見せていた。
今すぐ飛んで行ってみよう、そうしたら、きっとあの上を渡れるんじゃないか、と隣の小柄な男を誘いかけてみても、彼は相変わらず機嫌悪そうに眉を寄せて、そんなわけがあるかくそったれめ、とそっぽを向いてしまった。
夢のない奴だ。
悟空だって、あれに近づけば近づくほど、同じ速度で離れていってしまうことくらい知っている。
本当にあれに乗れるんじゃないかと思っていた頃、一人で冒険しに行ったことがあるのだから間違いない。

「なあ、でも滑り台みたいに、あれの上を滑れたら、面白ぇだろうなあ」

雨露に濡れた草原で、腰に手を当てて空を見上げていた悟空がそう呟くと、ベジータはフンと鼻を鳴らした。

「ガキか、貴様は」
「いいじゃねえか、オラだってそれができないことくらい知ってるんだ」
「当たり前だ。虹なんて、どんなに近づいてもどんどん離れて行くだろうが」
「…お?」

真面目腐った顔で言ったベジータを、悟空が楽しそうに口角を引き上げながら振り返る。
あまり気持ち良い笑顔ではないそれに、ベジータはますます顔を顰める。

「…なんだ」
「ってことは、おめぇも虹に近づいてみようとしたことあんだな!」
「……!!!!!」

その瞬間、サイヤ人の王子の顔が一気に真赤に染まる。
その反応がますます面白くて、悟空はにっこりと笑った。

「オラもやったぞ、小っさいころ、あれに乗れるって信じてたかんなぁ!」
「…かっ、勘違いするな!!たまたまそっちの方角に向かおうとしていただけだっ!!」
「よかった、ベジータもやっぱりガキのころはオラと一緒だったんだな」
「貴様と一緒にするなぁっ!!」

本気で怒りだす彼がビックバンアタックをぶちかまそうとするので、悟空は慌てて悪ぃ悪ぃと謝りたおす。
それが謝っている態度か!と、結局本気で殴られたのだが、こうやって時々仮面が剥がれるように、隙間のない鎧から零れてくる生身の彼の姿が、どうにも好きでたまらなかった。

「イチチ…。」
「貴様なんぞに俺の必殺技をわざわざ使うまでもないっ!」
「おう。さんきゅ」

悟空は殴られた頬をさすりさすり立ち上がる。
腕を組んで背を向けてしまったその小さな体に近づいて、背後からゆっくりと抱きしめた。
びくりとしたものの、すぐに振り払うわけではないのを見ていると、ああ、愛されてるなと感じる。
よくよく見れば、その耳が赤くなっているのが見えて、悟空はますます嬉しくなった。

「でぇ好きだ、ベジータ」
「殴られて言う台詞がそれか」
「だってオラ、ベジータのこと好きなんだもん」
「フン、勝手に言ってろ、煩いやつだ」
「うん」

その捻くれた口からは滅多に愛の言葉なんて聞けないけれど、それを強要する気なんてなかった。
なあ、だって、オラにはその態度だけで、十分だよ。


*****


あのベジータの妻であるブルマが不安そうに目を伏せるので、どうにも困ってしまった。
なんだか、ちょっとヘンなのよねえ、と。
片眉を上げて溜息をついたブルマが、孫くんはどう思う?と尋ねてくる。
カプセルコーポレーションを訪れたのは久しぶりだったが、いつもならすぐにベジータのいる重力室に通してくれるのに、今日はちょっと引きとめられたのだ。
そこに座って、と席を勧められ、何か重大な話でもあるのかと悟空は首を傾げる。

「あのね、アイツ…なんだか、変なこと私に聞いてくるのよ?」
「変なこと?」
「例えば、重力室の使い方とか」
「重力室の使い方ぁ?」
「そうよ。だって、アイツってああいう奴だから、いつもあれ使ってるじゃない。何で突然そんなこと私に聞くの?」
「うーん……ウッカリ忘れちまったんじゃねえか?」
「あとねえ、こないだなんて、手袋のしかたが分からないとか言ってたのよ」
「ええ!?そりゃあおかしいぞ」
「ね、孫くんもそう思うでしょ?」

難しい顔をして、今日もミニスカートから出ている綺麗な脚を組み替える。
重力室といえば、ベジータがまるで自分の部屋のように使っているあの修行の場である。
毎日毎日、とんでもない重力の中で努力を重ねる彼の姿は、息子たちに見習わせてやりたいほどだ。
確か重力のコントロールはそれほど難しい操作ではなかったはずだ。
基本的に機械には疎い悟空でも、すぐに使い方が覚えられるほどのものである。
ましてやベジータはほぼ毎日使っているのだから、忘れるという方がおかしい。
それに、手袋のしかたなんて、子供だって分かるじゃないか。
それを、あのベジータが?

あの、プライドの高いベジータが?

ブルマに尋ねるなんて、尋常じゃない。

「そっか…。オラ、ちょっと会ってくる」
「そうね。孫くんも結構会いにきてるけど、気付かなかった?」
「いや、オラはあんまり…」
「そう。うん、聞いてくれてありがとう。なんだかちょっと落ちついたわ」
「ああ、ベジータは重力室だな?」
「そうよ。」

悟空は、席を蹴るように立ち上がって、小走りに重力室へと向かった。
一緒に暮らしているブルマほど、いつも傍にいるわけではない。
そんな彼は今まで見たことがなかったので、どうにもそんなおかしな物忘れをしてブルマに頼っている姿なんて想像できなかった。

「おい、入るぞベジータ」

重力室のドアを叩いて、悟空は右手の指を額に当てる。
突然瞬間移動すると怒る彼だが、こうやって扉の前まで来て、重力室の中に入ってくる分にはそれほど怒らない。
重力室では、重力が外界と違う状態になっているときは、扉がオートロックになって開かないのだ。
ベジータが、扉を叩いたところでわざわざ重力を1Gに変えて扉を開けてくれるほど親切ではないことくらい分かっている。

「なんの用だ?」

瞬間移動で彼の真横に行ってみると、一気に300Gの重力が身体を押さえつけた。
押しつぶされそうになって慌てて気を高め超サイヤ人になって、ふうと息をついている悟空に、ベジータは振り返りもせずにそう言う。
いつもと同じだ。

「おめぇに会いに来た。オラと修行しようぜ」
「フン、いちいち煩いやつだ。」
「なあ、そういえばおめぇ、今日は手袋してねぇんだなあ」
「邪魔だからしてないだけだ」
「そっか?」

先程、ブルマから「手袋のしかたを聞かれた」という話を思い出して、悟空は何となくじわりと嫌な感じがした。
しかし、どうしてだかそれを確かめるのは怖かった。
否、本能的に、それが何かの前兆であると分かっていたのかもしれない。

「外行こうぜ、ここは狭ぇから」
「ワガママな野郎だ」

にやりと笑ったその顔を見ながら、このまま時が止まればいいのに、と思った。



*****



もしかして、この世にはデンデ以外にも神様がいるんだろうか。



悟空は、まだ子供であるトランクスの世話もあるブルマを手伝いに、カプセルコーポレーションを訪れていた。
否、正しくは、夜中に彼を見張るために来ている。
重力室の使い方を忘れた彼。
手袋をしなくなった彼。
その時から、少しずつ、少しずつ、目に見えない速度で、彼の記憶がどこかに零れていってしまっていたことを、もう誰もが認めざるを得なくなっていた。
ついさっき尋ねられて答えたばかりのことを、また、まるで初めて聞くかのように尋ねる。
食事をたらふく食べたばかりなのに、まだ食べて無いと言う。
自分でしまいこんでいた本のことも、「お前が盗ったんだろう」と詰め寄る。
しまいには、最近夜中に起きだして、「帰る」と言い出すのだから始末に負えないのだ。
困ったことに、彼はそう言って家を飛び出したはいいが家に帰れなくなって、結局気を探して瞬間移動で悟空が連れ戻したことが何度もある。
帰る、って、どこに帰るつもりなんだろう。
彼の帰りたい場所は、もう記憶の中にしか存在しない惑星ベジータなのかもしれない。

「なあベジータ、そろそろ寝よっか」
「……まだ眠くないぞ」
「おめえ、夜に何回も起きっから寝不足だろ?」
「そんなに起きた覚えはない」
「な。オラはもう眠ぃぞ」

とっぷり日も暮れたころ、ベッドの上に居てもなかなか寝付こうとしない彼を、どうにか寝かしつけようと笑いかける。
笑顔には人を救う力があるのだと思う。
悟空は床に座り込んでベッドに肘をつきながら、ベッドの上に座っているベジータを見上げた。

「俺がお前に合わせるのか」
「だって眠ぃんだもん」
「フン、しかたない」

こうやって頼むと、ベジータは必ず眠る体制になってくれる。
ばふっ、と布団にうつ伏せになったベジータをじっと見つめた。
今はまだ、今はまだこうやって、覚えていてくれるんだ。
分かってくれるんだ。

「おい、カカロット」

すると、彼は顔を伏せたまま、悟空の名を呼んだ。
凛と冴えわたるようなその声。
王子の威厳を持つその声が、こうして名前を呼んでくれるのだって、あと何回。

「俺は、いつかお前のことも忘れてしまうのか」

悟空はその瞬間、時を止められたかのように、ぴくりとも動けなかった。
その言葉は、まるで音が実体化してのしかかってくるかの如く。

「最近、どんどん分からないことばかりになっていくんだ。このまま、俺は、何もかも分からなくなるのか」
「ベジータ」
「最後には、お前のことも、お前の名前さえ、分からなくなってしまうのか」

心臓のあたりが押しつぶされそうだった。
もうこれ以上考えるのをやめようと思っていたことだった。
いつか、このままベジータがいろいろなことを忘れて行くなら、最後には何にも分からなくなるんじゃないかって。
最後には、どうなってしまうのかなんて、考えたくなくて。
まさかそれをベジータの口から聞くことになるだなんて。
目の奥が痛い。
何で、頬に生温い水が流れるんだろう。
ぽたり、ぽたり、とそれが白いシーツに染み込んだ。

「忘れたくない、俺はもう、何にも忘れたくない」

最後の同胞である、サイヤ人の王子。
この愛しい人の記憶を、持って行ってしまったのは神様なんじゃないかって思う。
だから、きっとこの世には、デンデ以外にも神様がいるんじゃないか、って、思うんだ。

「大丈夫だ、大丈夫」
「何で貴様がそう言い切れるんだ」
「大丈夫、だって、オラは絶対、お前んこと…、忘れねぇから」
「俺が忘れても、お前は忘れないんだな?」
「うん、絶対、絶対、絶対、忘れねぇから…!」

今、ベジータが顔を枕に埋めてくれていて、本当によかったと思った。
だって、こんなにぐちゃぐちゃの顔見られたら、不安になるだろう?
本当に不安なのはベジータなのに、そのベジータに忘れられることをこんなに恐れてるのがばれたら、ますます不安になってしまうに決まっているだろう?

なあ、おめえの記憶は、どこに行っちまったんだ。
もし取り返せるなら、絶対取り返してきてやるのに。
デンデ以外の神様が奪ってるっていうなら、その神様を倒してでも、取り返してくるのに。

「オラ、ベジータがでぇ好きだから」

そう言って、悟空はぐいと涙を腕で拭った。



*****



ほんの少しでいい、おめぇの中に、オラの欠片が、残っていてくれると信じてる。


自分で自分のことをほとんどできなくなったのは、いつからだっただろう。
いくらベジータが小柄だとはいえ、力のいる介護を子供もいるブルマが一人で行うのは大変だろうと、悟空は度々カプセルコーポレーションへ訪れてはブルマの代わりにベジータを看ていた。
気の利いたことができるわけでもないし、トイレに連れて行ってやったり、すっかり痩せた体を拭いてやったり、食事を食べさせてやったりする。
悟空がやるならそんなに力を使うこともないのだが、これを女一人でやるならばなかなか大変だろう。

「なあ、今日何日だか分かるか?」
「……」
「ベジータ、きこえてる?」
「あ?」
「ほら、そこにカレンダーあっだろ?」

そう言って悟空が壁を指差しても、ベジータはそれを見る気配もなく、ただじっと悟空の顔を見つめている。

「おまえ、だれだ?」

まるで夜の闇のような真っ黒の瞳。
無邪気とすら言えるその質問に、悟空はただ寂しげに微笑んだ。
何度でも教えてやる、おめぇが忘れていても、オラがちゃんと覚えているから。

「オラか?オラはカカロットだ。おめぇんことが大好きな、最高のライバルだ」
「かかろっと?…知らないぞ」
「うん、知らないよなあ。でも、オラは知ってるんだ」

なあベジータ、おまえの記憶がたった一日でもいい、もとに戻ってくれるなら。

「ふうん……」
「あっ、ベジータ。ほら、虹が見える」

悟空は、窓の外を見上げて笑う。
そうすると、つられるようにベジータが窓の外を見上げた。

「あれには、触れないのか?」

その言葉に、悟空はまるで遠い昔のことのような記憶を思い出す。
一緒に虹を見たとき、おめぇは、触れるわけがないって怒ってたな。
なあ。

「触れねぇんだ。遠くにあっからな。」
「……」
「今度、一緒にあれに乗りに行こう」


たった一日でもいいんだ。
もう一回だけでいいんだ。
前みたいに、ちょっとくだらない話をして、笑い合えたら、それでいいんだ。


だけどお前は、そこでそうやって、無心に窓を見つめて、虹を見上げている。




END.






はい、今日突然夜9時ごろネタが浮かんで、がっつり2時間ほどで書いてみました。
自分で浮かんだネタなのに、あまりにもキュンキュンしすぎて、ひいひいしながら書いたんですが
あまりの文章力の無さに…うああ…
頭の中ではもっといい話だったんです。
誰か文才を分けてください。

言わずとも分かると思いますが、若年性アルツハイマー型認知症という設定で書いてます。
症状をちゃんと調べて書いたわけではないんですが、ときどきテレビで見たり、授業で習ったりしたことをうろ覚え的に…しかもネタ的に都合よく解釈して書いているので、そのあたりは適当です。

ベジータに対して、わざわざ「カカロット」と自己紹介するところがポイントです。
ベジータにとって、悟空は「カカロット」であり、「孫悟空」じゃないんだって悟空が思ってるという話。

いやいや、私は本当にベジータにどうなってほしいんだろう…

普通、「記憶喪失ネタです!」というと、まず絶対何か事故とかでポーンと記憶が飛んで、一時的なもんだと言われながら思い出せず、大好きな恋人がモンモンとする話がだと想像されたと思います
そういう心の準備をすっかりひっくり返すようなお話になってると思いますww
大抵は、最後は記憶戻ってメデタシメデタシですからね。
そういう記憶喪失ネタをやる気はないのでwwだってみんなやってるから。



101113

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