―少女と云ふ存在を物に例えるとしたら、それは一振りの鋭利なナイフのやうだと思ふのです。









『――本日未明、N県の高校で女子生徒の遺体が発見されました。顔面が潰れ全身の損傷が酷い為遺体の身元の確認が取れていませんが、先日から行方不明である女子生徒の夜久月子さんである可能性が高いと見て捜査を進めています』





昨夜から続く豪雨で朝から湿度が高く、とにかく不快だった。どす黒く蠢く雲が唸り声を上げ、叩き付けるような雨は止まらない。暗い空と重い空気は陰欝を呼び込み、呼吸をすれば欝陶しく湿った空気が喉を濡らした。水溜まりを跳ねる水滴がズボンを濡らし、また苛立ちが募る。憂鬱なのは僕だけではないらしい。透明なビニール傘の群れはいつもより口数が少なく、朝の通学路は雨期の死神が支配していた。憂鬱さは伝染する。浮かない顔の生徒達、まるで葬列のようだった。それが気味悪くて足早に学校を目指す。傘から滴る水が肩を濡らした。ああ、気持ち悪い。
そんな不快感が支配していたせいか、僕は異変に気付くのに少し遅れた。校門を抜けしばらく歩けば、雨だというのに教室の窓から身を乗り出している生徒が沢山居る。前を歩く同学年と思われる生徒も何やらざわついていた。皆一様にグラウンドへ目を向けている。習性というか、釣られて僕もグラウンドへ目をやれば人だかりが出来ていて、それを不知火会長と副会長の青空が傘も差さずにずぶ濡れになりながら牽制している。

「いいからっ、来るな!お前等は教室に戻れ!」

不知火会長の怒声は雨だというのに此処まで響いてきて、しかも鼓膜のみならず心臓を震わせるような必死さだった。あの不知火会長の声が上擦っている。その会長の横で会計の天羽が大きな身体を縮こまらせて俯いたまま動かなかった。

「いい加減にして下さい!会長の指示が聞けないんですか!?」

あの物腰の低く大人しい青空が珍しく高圧的に叫んでいた。濡れて張り付くその髪は欝陶しそうだったが、彼はそれ以上に周囲の人間を欝陶しく思っているようだ。そんな彼等の守る中心に見慣れた人影が一つ。遠目からでも目立つ翡翠色はきっと星月先生だろう。先生はいつもけだるく憂鬱そうだったが、先生の表情は苦しげで今にも呻き声を上げそうだった。
此処はグラウンドより高い位置にあるから、先生がなんであんな顔をしていたのか、不知火会長があんなに取り乱しているのか、青空が必死だったのか、天羽が俯いたまま動かないのか、全部わかってしまった。
星月先生の足元、水浸しのグラウンド。びたびたと落ちる雨が広げた水紋に合わせてミルクティー色の長い髪がゆらゆら揺れていた。黒いタイツは所々切れて白い脚が見えている。スカートがずたずたに裂かれて太股に纏わり付いていた。雨水に流され朱色になった血溜まりが広がっていく。豪雨に打たれ、泥に、血に塗れ、ぼろ雑巾みたいに打ち捨てられた少女。
それが誰か分からない訳がなかった。この学校で女子生徒はただひとりなのだから

「嘘だ、ねぇ翼、これが先輩なんて嘘でしょう?ねぇ、ねぇ!」

一年の木ノ瀬が天羽の肩を揺らす。その隣で宮地は黙って、でも何かに堪えるように唇を噛み締め目を閉じていた。
生徒の群れから不知火会長に掴み掛からん勢いで飛び出して行ったのは彼女の幼なじみの七海と東月だった。

「不知火先輩、どいて下さい!確認しなきゃ、信じられません!俺はこの目でみなきゃ、」
「そうだよ!こんなん信じられるかよ……なぁ、月子、ホントに死んじまったのかよ」

そんな二人を見て会長は一瞬苦々しい顔をしたが、必死に堪えたまま二人を止めた。

「……ダメだ、お前たちも」
「何の騒ぎですか、会長」

この落ちた空気に似合わない明るい声がして、皆弾かれたように顔を上げた。まさか誰が信じられようか、そこに遺体でいたはずの夜久月子本人が真っ赤な傘を差したままいつもと変わらず朗らかに微笑んでいるのだから。

「……月子?」
「良かった月子、月子っ」「生きてたのか…!」

幼なじみや生徒会のメンバーが安堵を浮かべたまま彼女に駆け寄る。彼女は赤い傘を差したまま微笑んでいた。その表情は何より柔らかいのに、次の瞬間吐き出された言葉に空気は一瞬で凍り付いた。

「何が良かったの?私、死んじゃったのに」

彼女は赤い傘を閉じて彼女の死体だと思われるそれに近付いた。
ただならぬ空気に周囲の生徒達は道をあける。彼女は雨に濡れる事も厭わず中心の遺体にかけられていた星月先生の白衣を剥ぎ取った。めった刺しにされた顔面が晒され、余りの惨さに生徒達はうっと呻いて視線を逸らした。彼女と親しいだろう人物達も苦しそうに顔を背ける。

「ねぇ、なんで誰も見てくれないの?これも私なのに、ねぇ」

彼女は自分の死体を見下ろしながら震えていた。雨粒に塗れ、頬は濡れているのか泣いているのかわからない。そのまま彼女は顔を引き攣らせるようにして笑っていた。

「汚い私は嫌い?醜い私は嫌い?見たくない?だから皆目を逸らすの?都合の悪いものはみたくないの?ねぇ!
どうして?私頑張ってるでしょ、皆が思う私でいられるように頑張ってるでしょ?なんでそれなのに目を逸らすの?見てくれないの?苦しかったの、ずっと苦しかった!自分を偽って、私は綺麗な私を形作ったよ。そうすると皆可愛いねって、優しいねって褒めてくれたね。私嬉しかった、でもすごく悲しかった。じゃあ、もう一人の私はどうなるの?綺麗な私の為に傷付いた私は何処に行くの?
例えば押し付けられた感情がうざったいとか、女神だマドンナだって勝手に妄想してんの欝陶しいとか唾吐いて悪態つく私はどうしたらいいの?皆望んでいないでしょう。こんな私いらないでしょう?
嬉しいの、可愛いとか優しいとか、全部嬉しいのにそれがもう一人の私を傷付ける。ナイフで、ずたずたにされる!」

彼女の感情の吐露は激しい濁流になり、その場に居る全ての人間を飲み込んだ。こんな風に叫ぶように引き裂かれるようにして思いを吐き出す人間を見た事があるだろうか。彼女はのたうちまわるように、泥に塗れて髪を振り乱して叫ぶ。
誰も何も言わなかった。言えなかった。

「……なんで、なんで私を知らないくせに好きだなんて言えるの?全部噛んで飲み下せないくせに。上っ面しか見てないくせに。こんな私見てまだ好きって言えるの?」
「…………月子、」
「腫れ物触るみたいに扱わないでよ!私、そんなに頼りない?か弱い?違うよ、そんなんじゃない!
私ずっと皆が羨ましかった。男の子同士、信頼しあって支え合ってるのが羨ましかった。大事に守られたいんじゃないの、私は私の足で立って誰かを守りたかった。その為なら幾ら傷付いても平気なのに。
でも求められる私はそんな私じゃない。苦しくて苦しくて堪えられなくて、私、私を殺したの。ナイフを振りかざして、刺して、刺して、切り裂いて!皆が望まない私なら殺したっていいじゃない。痛かった、痛くて痛くて気が狂いそうだった。
……そこまでしても私、愛されたかった。どうしようもなく私は女だった。全部知って、欲しいの。可愛い私だけじゃなくて、転んでもがく私も汚い私も全部飲み込んで愛して欲しかった。ごめんなさい、ごめんなさい…」

彼女は泣きながら自分の遺体を抱き起こした。彼女の涙が落ちる度、遺体の傷は塞がっていく。やがて現れたのは穏やかなまま目を閉じる彼女の顔だった。

「私が、愛してあげられたら一番良かったのに……ごめんね、ごめんね」

そう呟くと、殺されたはずのもう一人の彼女が不意に目を開いた。眠たそうな目でもう一人の自分を捉えた彼女は柔らかく微笑んで彼女を抱きしめる。

「私はあいしてる。愛せないのなら、私が愛してあげるから」
「……っう、あっ、ごめんなさいごめんなさい」
「いいのよ。あいしてる、誰よりあいしてるわ月子」

彼女は彼女の瞼にキスすると、ほろほろと雨に溶けるように消えていった。
残った彼女はと言うと、しばらく雨の中踞って泣いていた。誰も何も言えなかった。沈黙の中動いたのは不知火会長だった。

「……月子、立てるか」
「っふ、く」
「いや、立つんだろ?ほら、立て。風邪ひくぞ」
「……ぅぁ、はっい」
「よし、行くぞ。ほら、お前等も早く教室に戻れ」

その日から彼女を装飾する華やかな噂話は途切れた。理由は知らない。でも確かに言えるのは、可憐でいて何よりも獰猛だった彼女の泣き叫ぶ姿は皆の目に焼き付いて消えないのだろうという事一つだけであった。
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