三月一日
 




 静まり返った体育館、唯一響くのは誰だか分からない──恐らく来賓の人による、何回目かの祝辞だけ。数多のパイプ椅子に座る者は、左胸に赤い花が主張している。もちろん、御幸も例外無くだ。

 三年前の四月を思い出す。新品の制服、新品の上履き、身長も今に比べたら低かった。体育館の雰囲気はもう少し明るかったかもしれない。入学前、もう既に野球部での練習は始まっていたし、周りの新入生たちのような緊張感は無かった。あれから、三年。今、青道高校三年B組の御幸一也として制服を身に纏っている。学生の象徴である制服も、ユニフォームに比べたら袖を通した回数は少ない。それぐらい野球ばかりやってきたという証しでもあるのだが。
 御幸は、視線だけで周りを見やった。右斜めで退屈そうに欠伸を堪えている男子生徒が目に入る。その後ろの女子生徒とは──いつだったか、何か会話をしたような気がする。内容が記憶に残ってすらいない、その程度だ。一度も言葉を交わしたことのないクラスメイトだっている。
「校歌斉唱。生徒一同、起立」
 その号令と共に、先ほどまで視線の先にいた男子生徒を含め、周りが一斉に立ち上がる。御幸も辛うじて間に合わせたが、変に力んだせいか思いの外上履きのゴム底が高音を鳴らす。幸い、気に留めた者はいなかった。こんなところで目立ちたくはない。
 ピアノ伴奏が始まり、聴き慣れた旋律に声を乗せていく。前方にはバックスクリーン、踏み締めるはグラウンドの土。一列で並び、汗と土まみれのまま、勝利の校歌を開いた空に歌う。部活以外で口にする機会がほぼ無いためか、校歌はグラウンドでのイメージが一段と強いのだ。御幸は、体育館の壁に反響する声を聴きながら真っ青な空を思い浮かべる。歌声が止むと、ピアノの音色はやがて拍手へと変わった。
「一同、着席。卒業生、退場。」
 式と名の付くものは、なぜこうも立ったり座ったりを繰り返すのだろうか。そんなたわいもない不満をぶつける相手がいるはずもなく、号令通り腰を下ろす。
 この時期、毎年テレビ等で聞くことがあった定番の卒業ソングが流れる。次々と退場が促され、御幸は前に立つクラスメイトの頭を眺めながら真っ赤なカーペットの上へ足を踏み出していく。つい先ほどまでの静寂とは、打って変わって響き渡る拍手に混じった音楽の歌詞を、初めてまともに聴いたかもしれない。
 ──なんだこれ、ラブソングだったのか。
 知らなかった。そんなことを今、この状況で初めて認識するほどには落ち着いている。永遠の愛だとか愛してるだとか、馴染みのないむず痒いフレーズを耳に残しながら体育館を後にした。

 体育館でじっと着席していた生徒たちは厳かな雰囲気から一転、校門前では賑わいながら仲の良い友人同士で固まりはじめている。涙を流しながら別れを惜しむ女子生徒、“旅立ちの日に”を面白おかしく歌っている男子生徒。パリッとしたスーツを身に纏った母親らしき人物は、男子生徒の頭をはたいて歌を止めさせた。
 倉持や川上、渡辺と合流しグラウンド前へ赴くと、一年や二年の姿が見えた。御幸たちに気が付くと、次々に卒業おめでとうございます、と言葉を投げかけてくれる。どうやら前園や麻生は式が終わってから今に至るまで、ずっと泣き続けているそうだ。気が済むまで泣かしといてやれ、と後輩たちに告げた。
 ふいに風が吹き、反射的に肩を窄める。体育館で暖房が唸っていたのも納得だ。フェンス越しを眺める。誰もいない整備されたグラウンド、もうあそこに立つことはない。
「おいてめえ、何ボーっとしてんだ。まさか、向こう行っといてまだ実感湧かねえとかじゃねえだろうな」
 突如、右耳に倉持の声が響いた。
 図星を突かれる。やはり、倉持は他人をよく見ている。また御幸自身、ぼんやりしていた意識は無かったが、いつの間にか隣に来ていた倉持に気付かなかったのだ。無意識だったのか。特に誤魔化す必要も無く、本心を返す。
「いや、そのまさか。実感湧かねえな」
「マジで期待裏切らねえなお前……」
「さすがに式終わったら卒業だなって、なると思ってたけど。やっぱこのグラウンド見るとここで野球したくなる」
「分からなくもねえけど……。今日終わったらガチで部外者だぜ、俺ら。もう寮も入れねえしな」
 笑いながら倉持は話す。──分かってるって、そんな事。御幸は口に出そうとした言葉を飲み込んだ。分かっている。明日が来れば、いや式が終わった今の時点で青道高校の生徒ではなくなった。もう既に、所属が決まった球団の練習に参加するため一月からここへは通っていない。今日だって、二か月ぶりに学校の門をくぐった。もちろん、卒業式のためだ。分かっているのに実感が追い付かないのだ。夢の中で自分を俯瞰して見ているような、なんともふわふわした心地がもどかしい。

「先輩方! ご卒業おめでとうございます!」
 遠く、祝いの言葉を叫んでいるのが聞こえる。沢村だ。ベンチでも、ブルペンでも、マウンドでも、いつでもその威勢の良さは変わらない。同室の倉持はすぐさま声の主に叫び返す。
「沢村うるせえぞ! 一年が引いてんじゃねえか」
「あっ倉持先輩! 三年間お勤めご苦労様でしたあ!」
「お勤め言うなや!」
 倉持の突っ込みなど意に介さず、沢村は溢れる涙をこぼしながら御幸たちの方へ駆け寄ってくる。去年、クリス先輩にも同じような事を言っていたが沢村のボキャブラリーはどうやら変わっていないらしい。真っ赤な目じりは泣き過ぎたせいか。倉持にヘッドロックを決められながら、濡れた瞳が御幸を捉える。
「ああっ! 御幸先輩!」
「なんだよ」
「どうしたんですか元キャプテン、もっと目立たないと!」
 大げさなぐらいのテンションでそう詰め寄ってくるが、大げさが沢村の通常運転である。感情で生きている人間とは、こういう奴の事を指すのだろうか。
「お前こそ新キャプテンより目立ってどうすんだ」
「そ、それはその……。エースとして?」
「そこは自信持てよ」
「エースとして!」
「ふっ、エースね」
 ──頑張れよ。そう口にすると同時に、沢村の眼が御幸を真っ直ぐに射抜く。
「御幸先輩!」
「え、何」
「球受けてください!」
「え?」
「今すぐ!」
 倉持が意味分かんねえ、と言いながら腹を抱えて笑っている。意味が分からないのは同意する。幾度となく聞いてきた言葉だが、この状況で耳にすることが不自然すぎる。グラウンド前とはいえ、ボールがある倉庫まで距離はあるしミットなんて東京にすらない。グラウンドも今日は全面使用中止だろう。あまりにも唐突すぎる沢村の言葉に御幸は一瞬、呆然としてしまった。
「エアでいいんで!」
「なんだそりゃ」
 思わず率直な本音が口を滑ってしまったが、つまりボールを使わないという事らしい。とりあえず形だけでも、というのが沢村の望みだ。シャドーピッチングのようなものと考えれば良いのか。──俺いらなくねえか。そう頭をよぎるが、御幸はこうなったらテコでも動かない沢村を十二分に心得ている。しかし、自身の欲に忠実な奴は嫌いじゃない。沢村の場合は、少しばかり素直すぎるきらいはあるが。
「よく分かんねえけど……。仕方ねえ、ちょっと向こう行け」
「分かりやした!」
 目に見えて嬉しそうな表情を張り付けた沢村が駆け出し、ざわめきから離れる。後についていくと、倉持が笑いを堪えながら御幸にひらひらと手を振っているのが見えた。面白がっているのだろう。ああ、本当面白え奴に捕まったよ、と投げかける代わりに御幸は手を振り返してやった。

 下はアスファルト、ボールもミットも無い。マウンドからホームベースの距離、一八・四四メートル。こんなものだろうと想定し、御幸はそこに腰を落として構える。
「じゃあとりあえず、ストレートな。軽く」
 そう沢村に声を掛けるが、そもそもボールなんて無いのだ。癖というものは恐ろしい。しかし、沢村はこくりと頷いた。
「おーし、いきますよー!」
 そのままピッチングの体勢に入る。
 マウンドに立つ沢村のいつもの、あの眼だ。御幸は、自然と口角が上がってしまうのを気付かないでいた。盛られた土もピッチャープレートも無い今、確かに沢村はマウンドに立っている。
 右足を上げ、腕を振りかぶった。
 帽子に押さえられていない前髪がふわりと浮く。
 音も形もない球を左手で受け止める。
「……分からん」
「なんだって! 今のはばっちりストライクでしたよ!」
「んなこと言ってもなあ……。ボールねえんだもん。フォームは悪くないな」
「おっしゃー! じゃあもういっちょいきますよ!」
 そう叫ぶ沢村の声をぼんやりと耳にしながら、御幸は同じところに左手を構える。試合でも、ましてやグラウンドでも無い。それでもボールを投げようとする沢村は、御幸を真っ直ぐ、睨みつけるように見る。どうしようもなく、マウンド上を彷彿させるのだ。
 沢村が見ているのは御幸自身ではなくミット、今は左手なんだろう。しかし、まるで自身に視線がぶつけられているような錯覚に陥る。そう誤解してしまうほど沢村の眼は力強く、火中のガラスのように熱く、どこまでも透き通っている。その双眸にあてられ、どうしようもなく心が揺さぶられてしまうのは、沢村の球を初めてミットに受け止めた時から変わらずにある。

「今度はどうっすか!」
投球後の姿勢のまま、沢村は期待を抱くように御幸の方を見やる。
「ナイス……ボール?」
「もっと自信持って!」
「なんかデジャヴだな。はいはい、ナイスボール」
「いつでも最高を心掛けてるんで!」
「それは何より。でもこれは無茶だぜ」
「まあやっぱ、ほんとのボールがいいっすね」
 そう言いながら、沢村は御幸の前へ歩み寄るとアスファルトの地面に躊躇なく腰を下ろした。入学時より指定のブレザーが窮屈そうにしている。ローファーもこの時期にそぐわず新品だ。背丈だって抜かされてはいないものの、いつの間にか追いつかれそうになっている。二年も経っているのだから当たり前か、と御幸は胸の内で独りごちる。
「逆に、なんでボールねえのに球受けろなんて言ったんだよ」
「だって、御幸先輩卒業するじゃん」
「……そうだけど?」
「なんか急にぐわーってきたんですよ」
 沢村の“卒業”という言葉を耳にした瞬間、どきりとした。もう、青道野球部でもないしキャプテンでもない。球団の練習が始まった時から、御幸自身もう高校生ではないという自覚もあったが、たった二か月でそう思わざるを得ないほどプロの世界というものは衝撃であった。しかし、先ほど倉持に揶揄われたように当日である今日が一番、実感が湧かなかったのだ。それが今、沢村の口から発せられた事によって急に現実味を帯び、じわじわと御幸の中に入り込んでいく。
「お前最後の部活の時、降谷と一緒に散々『最後の一球!』つってたじゃん」
「それとこれとは別なんで! 大体あれからどんだけ経ったと思ってんですか」
 目の前で地面を泳いでいた沢村の視線が、御幸の眼を捉える。最後の部活、最後の練習、最後の高校生活。もうとっくに終わったものだと思っていた。今日が終わったら、今度こそもう最後は無い。卒業式ですら、この先はもう経験できない。
「まあ、一生会えねえわけでもないし……」
「何言ってんですか! 東京からどんだけ離れてるか分かってます?」
「そりゃ住んでるんだから知ってるっての。でも今日も来てるじゃん」
「いや、そうだけどさ……。つーか、また下っ端からなんすよ、生意気言って目付けられてないですよね!?」
「はっはっ、お前には言われたくねえなあ」
 そう笑い飛ばすと、沢村はむくれた表情を向ける。そういうとこだっての、と御幸が言いかけたところで沢村が口を開いた。
「絶対追いつきますんで」
 何の事だか分からなかった。──追いつく? 何に? 御幸が思考を巡らせるより先に沢村が言葉を継ぐ。
「プロ、あんたのところです」

 息を呑んだ。目線の少し下にあるその顔は、先と同様、マウンド上と同じ表情をしていた。
 大きなガラス玉のような瞳が御幸を見据える。ぴりっとしたものが背筋を走る。
 沢村も、プロの道を志しているのだ。今まで、一度も耳にしたことは無かった。しかし、突き詰めてみれば当然である。何よりも投げることへの執念は恐ろしいほど深く、今では青道のエースを背負っている男だ。高校の部活、さらに上の世界とはプロの道であると、御幸が一番理解しているはずだった。大学や社会人という道もあるが沢村のことだ、プロへの進路を選択したことにも納得がいく。
 沢村にとって御幸とのバッテリーは唯一無二のものであると同時に、御幸にとっても沢村とのバッテリーは唯一無二である。もちろん、降谷や川上だってそうだ。そもそも百人の投手、または捕手がいれば百通りのバッテリーができ、野球を続けてさえいれば沢村も御幸も今後様々なバッテリーの片割れと出会う機会がある。
 それでもまた、バッテリーが組めたなら──。
 入学前の沢村と出会ってから二年と少し、何百何千と球を受けてきた。背番号二十から、一。捕手として沢村の球を一番理解し、受け止めてきたという自負が御幸にはある。
 あの時、中学生の沢村が青道に来なかったら。御幸が青道へ行っていなかったら。考えても終わりのない可能性なんていくらでもある。しかし今、目の前にいるのは紛れもなく沢村というひとりの男だ。出会った事すら偶然の内のひとつに過ぎない。でも、少しは奇跡なんてものを信じてみてもいいだろうか。また、マウンド上からあの眼を向けられる日を願ってみてもいいだろうか。

「その前に夏、勝ち取れよ。エース」
「分かってるって! 見ててくださいよ!」
 そう言うと沢村は、歯を見せながらニッと笑う。澄んだ瞳は御幸を映す。
「あっ! あと、卒業おめでとうございます!」
「今かよ」
 ──ありがとな。御幸はふ、と口元を緩めた。落としていた腰を上げると、沢村も促されるように立ち上がる。

 まだ肌寒い風が吹き抜ける中、初夏から真冬を過ごしてきた桜の蕾が春の訪れを待ち侘びている。
 三月一日、卒業式が終わった。





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