血液を操る |
国と国の境のお山の麓に位置する私の村の、その外れに住んでおられる善法寺伊作先生は、とても優秀なお医者様でありました。善法寺先生は、どのような怪我や病気の者も、顔をしかめずに治療をなさり、そしてまた、善法寺先生がお渡しになる薬はとてもよく効くものですから、村の者たちがお優しい善法寺先生を慕うようになるまで、時間はかかりませんでした。
そんな善法寺先生は、優秀であるがゆえに、同時にとてもお忙しい方でもありました。ちょっと往診に、と仰せになって村を出て、一日でお帰りになることもあれば、ひと月も帰ってこられないようなこともありました。
その間、善法寺先生の留守を預かるのは私でした。私は善法寺先生のお慈悲でここにおいていただき、少しずつではありますが医術の手ほどきを受けていました。善法寺先生は、お出かけになるたびに、私を見て「君なら大体のけが人は治せるよ。自信を持って。」と仰せになって出かけていきます。
けれど、私が留守を預かる間、やってくる村人はいずれも一様に私を見ると顔をゆがめました。
「おい、善法寺先生は。」
「……往診にいかれました。怪我などでしたら、私が、」
「お前にできるわけがないだろう!この役立たずが!」
立て付けの悪い戸板を、ものすごい音を立てて閉めた村の者に、私はびくりと肩を震わせて、ため息をつきました。
私は、足の使えない子供でした。幼いときに負ったやけどが原因で、満足に歩くことができないのです。足が使えないと言うことはすなわち、村の働き手となることができません。ですから、私は昔から、村のみんなに「役立たず」と蔑まれていました。
善法寺先生がこの村にきてすぐに、私の両親は藁にも縋る思いで私を善法寺先生に診せました。けれど、善法寺先生は、私を診て、それはそれは悲しそうに、ごめんね、とおっしゃいました。「これは僕には、治せないよ。」
それを聞いた私の両親の嘆きはたいそうなものでありました。何しろ両親は、いつか治るかもしれないと必死にこの日まで一人娘である私を育ててきたのです。もし治らないとなったら、村の者たちになにを言われるかわかりません。しかし、善法寺先生はそのかわりといって私をここに置いてくださりました。ここなら、足が悪くても仕事はあるから、と。私は、その言葉が嬉しくて仕方ありませんでした。
私は今、善法寺先生の助手としてこの診療所にすんでいます。善法寺先生は、「君になら安心して僕の留守を任せられる。」とお言葉をくださいます。けれども、善法寺先生はご存じでないのです。善法寺先生がお留守の間、誰一人としてこの診療所に足を踏み入れた者はいないことを。
みな、一様に善法寺先生がいないことに失望し、役立たずの私が堂々とこの診療所に居座っていることに顔をゆがめます。そして、敷居をまたぐこともせずに、怒鳴り散らして去ってゆくのです。
私は正真正銘の役立たずでした。田畑を耕すこともできず、善法寺先生直々に教えていただいた医術ですら使うこともできません。今はまだ善法寺先生の庇護下にいるので、村の者たちはなにも言いません。ですが、善法寺先生にこのことがしれれば、私は今度こそ役立たずとして村を追い出されてしまうでしょう。なにより、善法寺先生がこのことを知ったとき、そのお優しい顔に浮かべるのはどんな色なのでしょうか。それは、おそらく、私の両親が私の足が治らないと知ったときのような表情。
私が全く何の役にも立たないと知ったときの、失望の色に違いないのです。
*
善法寺先生が往診にいかれて、十日ほどがたった夜のことでありました。私はふと、覚えのある匂いに気づいて目を覚ましました。
寝起きの頭では、恥ずかしながら何の匂いかわかりませんでしたが、とにかく手に力を入れて体を起こし、そうして、それが何の匂いだったのか知りました。
「ぜん、ぽうじ、せんせい……?」
「ああ。起こしてしまったね。」
明かり取りの窓から入る月の明かりに照らされたそれは、赤に染められた善法寺先生のお姿でした。ああ、なるほど。嗅ぎ慣れたこの匂いは、血液の匂いでした。医術を行う私たちは、否が応にも人よりその身から流れる赤に接する機会が多くなります。けれどそれでも、濃密なその匂いは、眉をひそめるものがありました。
「善法寺先生、あの、その血は……?」
「ああ、大した傷じゃないんだ。」
そういうと、善法寺先生は、何でもないような返事をして包帯を取り出しました。けれど、その指先が震えているのに、私は何とか気づくことができました。それを見た私は、あわてて善法寺先生を止め、私にさせてください、とお願いしました。
意外なほどすんなりと頷いた善法寺先生から包帯を受け取り、衣を脱ぐようにお願いしました。薬棚から薬を出しながら、ああそういえば、と思いました。最初から最後まで、自分の判断で治療を行うのは初めてでした。いつもは善法寺先生の監督のもと行っていましたし、先生がいらっしゃらないときは村の者は誰も私に手当などさせてくれませんでした。それに気づいた途端、不安な気持ちで鳩尾のあたりが重たくなりました。この薬草を使うのでよかったのかしら。うまく包帯は巻けるのかしら。そして、なにより。
着物をためらいなく脱いだ善法寺先生の、腹から脇にかけてのぬらぬらと鈍く光を反射する傷口から、思わず目をそらしてしまいました。ああ、こんなことではいけないのに。今まで一度も一人で治療をしたことがないと、善法寺先生に知られてはいけないのですから。
「怖い、かい…?」
善法寺先生のいつもよりか細い声に、我に返りました。善法寺先生は、このままではもしかしたら死んでしまわれるのでしょうか。そんな風には見えませんでしたが、傷口はちらりと見ただけでも血が止まらずに、今なお善法寺先生の柿渋色の装束をより濃い色で染めあげておりました。それに、いつも病を持った村の者の話を聞く穏やかな声とも、私に医術について教授してくださるときの凛とした声ともなにとも違う、そのか細い声に、私はひどく不安になりました。もしも、私が失敗してしまったとき。そのとき、私はこのかたを殺してしまうのでしょうか。手が止まります。それは、とても恐ろしい想像でした。しかし、私はなにを恐ろしいと感じているのでしょうか。善法寺先生が亡くなってしまうことでしょうか。それとも。善法寺先生を殺すかもしれないという、責任に対する、恐怖でしょうか。
私は今確かに、善法寺先生を、この手に握っているのです。
そんな重いもの、持ちたくありませんでした。こんな、包帯を渡すことと同じように、そんな大切な物を渡さないでください。なぜ、私は、こんな重い物を持たされたのですか。
「ためらうな。」
「……え、」
「ぼくらは、それだけの能力を持つことを許されているんだ。このまま君がぼくを放置すれば、ぼくは死ぬ。逆に、治療を施せば、ぼくは生きることができる。君は、ぼくの命を操る権利を握っているんだ。」
包帯を持っていない方の手首を捕まれて、ぬるりとした感触に思わず悲鳴を上げました。けれど善法寺先生は私の悲鳴を無視して、ぐ、と傷口に私の手を押しつけます。
赤黒い液体が、また一つ、ぽつりと床を汚しました。
「せん、せ……」
「権利には常に責任が伴う。領主が領民から税をとる代わりに、領民を守る義務があるように。ぼくたちも、この血液を操る代わりに、その命に対して責任をとる義務がある。」
「……あ、」
どくり、一定の間隔で、血管が収縮しているのを感じました。
「そして、君は、村人のこの、命の証明ともいえる血液を操ることができる。同時に、その責任も。ぼくには君の責任は背負えない。背負うのは、君だよ。」
残酷な、言葉でした。同時に、恐ろしいほどの信頼に裏打ちされた、けれどやはり、突き放すための言葉でした。いつまでも善法寺先生の庇護下に甘えていた私を突き放すための。
「だからこそ、誇りを高く持ちなさい。怪我人も病人も、君は治せるのだから。田畑が耕せなくとも、それも立派な能力だよ。君にしかもてない、能力だ。」
知って、いらしたのですか。震える声でそういえば、村の中を通ると怪我をした人が声をかけてくるからね、と何でもないことのようにおっしゃいました。よく考えてみれば、当然のことです。善法寺先生を、欺けるわけなどありませんでした。
追い出さないのですか、と声を絞り出します。善法寺先生の留守を満足に守れもしない、役立たずの私を。追い出されたら生きてゆけないことなど百も承知でしたが、しかし私は、善法寺先生に逆らう術など持ち得ません。従うしかないのです。しかし、善法寺先生は、まだわかっていないねえ、と少しあきれたような声を出しました。
「君になら安心して、留守を任せられるんだよ。それだけのことを教えてきたし、君はそれだけのことをしてきた。それに自信を持つべきだよ。だからこそ、こうして体を預けている。」
「でも、」
「あと君に必要なのは、覚悟と、村の人の命に対する責任だけだ。それに、」
いつか、ぼくがいなくなったときのためにも、君は必要だ。
ついでのように言われた言葉が、けれど確実なる重さを持って頭を殴ったようでした。そんなこと、といいかけて、けれど私はそれを知っているはずだ、と思い直して、口を閉ざしました。ここにいれば、死は否が応にも目にはいるのです。それが、善法寺先生だとしても、何ら不思議はありませんでした。
その瞬間、何かに憑かれたかのように、私は治療を始めました。いつ、善法寺先生がいなくなるかなどわからない。それを知るのは、神のみでしょう。けれど、いま私は、善法寺先生の運命を操ることが、できるのです。
責任は、まるで喉をふさがれているような圧迫感を私に与えます。できることなら、振り払ってしまいたい。けれど、この善法寺先生から教わった技術で善法寺先生を救えるのなら、その権利が得られるのならば。
この代償も、喜んで背負いましょう。
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