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先回り後回り
「あ、あ、柳さん、蓮ニさん、柳さん、蓮ニさん」


交互に名前を呼んで、杏はその言葉の響きに目を細める。どちらも同じ人物を指しているはずなのに、くすぐったさが全然違うのはどうしてか。
柳さんと呼びなれた名字を紡げば、蓮ニさんと呼ぶよりも耳に馴染んだ。

そもそもどうして杏が柳の名前を呼ぶ練習をしているかというと、ちょっとした思い付きからである。
神尾のことはアキラくんと名前で呼ぶのに、柳のことを名字で呼ぶのはなんだかおかしな気がしたのだ。
杏は柳とそれなりに親しくなったつもりでいる。
いつまでも名字呼びでは他人行儀ではないか。


「蓮ニさん、蓮ニさん」
「杏、いるか?」
「きゃあっ!」


だんだんと耳も慣れてきたようだ、と調子よく連呼していると、軽いノックのあと返事も待たずに自室の扉が開かれる。
飛び上がって振り向いた杏は、ドアの前に立つ人物―――兄を慌てた口調でたしなめた。


「ちょっとお兄ちゃん!返事くらい待ってよ!」
「おお、すまん」
「…聞いてた?」
「…?何がだ?」
「う、ううん、なんでもない」


ドキドキと鳴り止まない心臓をさりげなく押さえながら問えば、きょとんとした兄の表情。
その顔に何も聞かれてはいなかったのだとホッとして何の用だったのか尋ねたら。


「今から買い物に出るが一緒に来るか?」
「行く!」


なんだかんだで杏はお兄ちゃんっ子なのである。



「橘」


聞き覚えのある声にいつもの言葉で呼び止められ振り向いた。
相変わらずの読めない表情をした柳がこちら側を見ている。
隣に立つ兄も自分と同じように振り返っており、今さらながらに自分が呼ばれたわけではないのかもしれないと思った。柳の視線は杏を捉えているようにも兄を捉えているようにも見えて、つまるところどちらもを見ている状況だ。


「柳か。久しぶりだな」


わずかにフリーズしている間に、柳はこちらへ歩み寄って兄と会話を始めてしまう。
呼ばれたのはお兄ちゃんだったのかな、となんだか拗ねたような気持ちになったのは、何かを期待していたからだろうか。

しばらく兄と話していた柳だったが、挨拶も終わったらしい。ではまたと声をかけ合うふたりを見て、私も挨拶をしなくっちゃと杏は顔を上げる。
柳と目が合った。


「杏も、また」


ほんのりと、柳が笑んだ気がする。
その様に気を取られ一瞬呆けた杏は、柳の口から零れた言葉にようやく気付いた。


「れ、蓮ニさん、さようなら!」


すでに踵を返して歩き始めていた柳の背に、杏は慌てて叫ぶ。
驚きと気恥ずかしさと嬉しさとで、少し声が上ずった。
柳が歩きながら笑いを噛み殺すように肩を震わせた、かもしれない。

兄だけが、不思議そうにふたりを見ていた。


先回り後回り
(そろそろ彼女が、俺の呼び方で悩んでいる頃だろうから)




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