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▼ 胸にもぐりこんだ春の棘が取れない

 僅かも身じろいではならぬという緊張感は、却って頭を冷静にさせる。顔布の下で、ゆるゆると視線をどこぞへ逸らしたままの審神者のおかしさを、だから薬研はつぶさに感じ取ることができた。
「俺を、近侍から、外す」
「そうだ、薬研。代わりは蜂須賀。明日からになる」
 そこまで言って薬研の方を向いた審神者の表情は、よくわからない。もともと、顔布を抜きにしても表情のうすい人だった。蛇のように色の悪い唇は、必要なとき以外ほとんど動くことはない。それでも、ずっと近侍をやってきた薬研には、その口の端がわずかにつりあがる場面を何度か見せるくらいには、親しんでくれていると思っていたのだけど。
「俺っちがなんか、大将の不興を買うようなことでもしたかい?」
「いや、そういうわけではない」
「ならなぜ」
「言いたくない」
 しれっとそんなことを言う審神者に、この人は、と薬研の口からため息が漏れる。落ち着いて見えるのはただ無口だからそう見えるだけで、中身は存外子どもっぽいのだ。しかも自覚しているからたちが悪い。「子どもじゃないんだから」と咎めても「だからどうした」と開き直るのだ。こうなってしまうと梃子でも言わないだろう、ということは薬研には予想ができた。
「……大将、いくらなんでも、理由も言わずに近侍を外されて、『はいそうですか』なんて言えるほど俺はこの位置に執着がないわけじゃないぞ」
「知ってる」
「……あんたはひどいお人だな」
 薬研がこの位置を譲りたくないと、できるならずっと彼の近侍でいたいと願っていることを知っているくせに、それでも薬研を遠ざけようというのだ、この人は。しかも、理由も言わずに。これでは、彼に嫌われてしまったのか、それともなにか別の理由があるのか、そんなこともわかりやしない。そんな審神者に薬研が怒ったり強く問い詰めたりしないのは、目の前にいる審神者とてどこか冷静でないのだと、長く傍にいた薬研にはきちんとわかるからだった。
「たあーいしょ、」
 薬研の仕える審神者は、薬研のこの、たしなめるような、なだめるような、それでいてどこか甘えるようなこの声に弱いことを、薬研はよく知っていた。多用しても一向に効果の薄れる気配のないそれは、感情の見えづらい審神者の薬研に対する甘さをよくあらわしている。
 きゅ、とそこだけ覗いた口元が軽く噛みしめられて、薬研は眉根を寄せて軽く身を乗り出した。出血するほどではないとはいえ、自分を傷つける癖は薬研からしてみればいい癖とは言えなかった。治せ、と何十年もその癖をやめなかった大の大人に矯正を要求した薬研は、そのまま責任をもって審神者の挙動に気を使い、諌めることもためらわない。す、と咎めるように伸ばした、細く、こどもらしくなく長い指はいつもどおりのはずなのに、ゆびさきが色の悪いくちびるに触れる前に、その手首は審神者に捕らえられた。
「……大将?」
 こてり、薬研は首をかしげる。中途半端に腰を浮かせた体制は、体重をかけたむき出しの膝が畳にこすれて少し痛い。離せ、と示すように軽く揺さぶった手は、どうやらまだ解かれないようだった。
「大将、どうしたんだ?」
「…………」
「大将、」
 何回か呼びかけると、審神者は沈黙を守ったまま、おもむろにすっとこちらを向いた。視線は顔布に阻まれて合わない。審神者の目を一度も見たことのない薬研にとって、未だに少し、審神者と正面から顔を合わすと少し落ち着かない。本当に見えているのだろうか、俺はきちんと、彼の顔を見れているだろうかと、そわりと一瞬背中がおぞめくのだ。
「……春の棘が」
「は?」
「胸にもぐりこんだ、春の棘が取れない」
「はるう?」
 ちらり、片腕をつかまれたまま、開け放たれた障子の先の庭を見る。審神者の趣味で現世の季節に合わせたそれは、今は木のてっぺんを赤く染めはじめて、すでにちらちらと枯れ葉が舞っている。
「大将、俺は確かに雅なことはわからんが、さすがに今が春でないことくらいは、」
「春は紫苑色だった」
 遮るように、いやむしろ、話など聞いていられないと言わんばかりに食い気味にそう告げた審神者に、一瞬ぽかんとする。紫苑?春は紫苑色?薬研の頭に浮かぶ春のイメージは、ありきたりだが桜の淡桃だ。紫色もまあなくはないが、それがなんだというのだろう。
 首を傾げると、それを見た審神者はもどかしそうにぎゅっとその手を握りしめる。少し痛い。なだめるようにもう片手もその手に伸ばすと、ぱしりと逆に捕らえられた。
「春はお前だ、薬研」
 するり、男らしく節くれだった指は薬研の白い指の間に入り込んで、絡み合わせるように繋いだ。その、いつもより少ししっとりとした、熱いとも言えるそのてのひらに、その言葉に、流石に雅に疎い薬研も理解せざるを得なかった。
 紫苑色の瞳。目線が合わないから見えているのだろうかと不安になる審神者に、その目はうつくしいなと言われたときだけ、薬研は少し安心する。見えているのだと、きちんと見てもらっているのだと、そう思えるから。
 審神者の胸には、紫苑色の棘がもぐりこんでいる。そして、審神者にとって、春は紫苑色だった。
「勘弁してくれ……」
 かあ、と頬に血が上る感触がわけがわからず、両腕をふりほどく。そのまま膝を抱えて見られないように顔を埋めるのに、はは、やはり桃色だったか?そう、めずらしくくちびるを釣り上げる審神者は意地が悪い。近い距離にひらりと揺れる顔布を仕返しにめくりあげようとすれば、抵抗する気配もなくそのままおとなしい。
「……大将だって、人のこと言えんだろう」
「違いない」


title:まばたき

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