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▼ baby moon

 ふと外を見ると、空はもう暗くなり始めていた。晴れていようと蛍光灯を点けている教室では、外の変化を意識しない。冬だからそこまで遅い時間ではないけれど、そろそろ帰ろうか。そう思って、未だに教室に残って勉強しているクラスメートにはばかりながら、静かに机の上を片付けていく。
 音を立てぬように廊下に滑り出し、玄関に向かって歩く。途中にある3-Bの教室を何気なく覗けば、丸井が一人で勉強していた。

「――丸井?」
「お、幸村くん。おつかれ。何、帰んの?」
「おつかれ。丸井は一人?」
「おう。」
「へえ。うちの教室はまだ何人かいるよ。」
「明日生物小テストなんだろ?物理も化学も明日は何もねえもん。」
「ああ、そっか。」

 3−B化学と物理の混合クラスで、その中で丸井は化学を選択している。仁王は物理だし、俺は生物。けれど、自分たちがテストがあると、全員がテストがあると思ってしまいがちだ。指摘に苦笑して、丸井の席に近づく。

「で?明日はテストないのに、丸井は何をしてるの?」
「う……こないだの小テストの補習……」

 あーあ、と呆れた声を出した。すこし前までだったら真田の鉄拳制裁を食らっていたことだろう。けれどその補習ももう終わりなのか、プリントの空欄はほとんどない。開かれていた化学の教科書を取ってパラパラとめくれば、一年次以外は生物しかやってこなかった自分にはさっぱりわからない項目がずらずらと並べられていた。

「丸井って化学得意なの?」
「別に普通だろぃ。勉強すりゃ合格点くらいは取れるし、しなけりゃほとんどわかんねえし。普通そうじゃね?」
「でも仁王って物理も化学も得意だよね。一年のときもほとんど勉強しないで80点とか取ってたし。」
「あいつは理系だからだろぃ?」

 鼻白んだように丸井は顔をゆがめた。あいつは別格とでも言いたいのだろう。文系の丸井は、毎回理系科目をほとんど勉強しない仁王にいらだっていた。斯く云う丸井とて、毎回国語は教科書すら見ずに臨むから、俺からすればお互い様としか言いようがない。

「でもさ、文系で化学取ってる人少なくない?たいてい生物でしょ。丸井生物苦手だったっけ?」
「苦手じゃないけど、嫌い。」

 なにげなく、自分のことに置き換えていっただけの言葉だった。丸井は文系、そして俺も文系。そして、文系の生物選択は二クラス、一方化学はこの3-Bの半分だけだ。事実、化学は計算が絡んで、文系にはすこしハードルが高い。だから、よほど生物が苦手だったのかと、そう思っての問いかけだった。けれど、帰ってきたのは、予想外の冷ややかな声だった。

「―――嫌い?」
「うん。」
「え、なんで?」
「ええ、言うのかよ。」

 何でもなさそうに頷かれたから、対応を間違えてしまったように思う。肯定を示した丸井のいつもの声は、作られたものであったらしい。とっさに否定も肯定もできずに視線をよろめかせれば、「笑うと思うよ?」と一転して眉を下げて苦笑した。

「……笑わないよ。」
「そお?そんな幸村くんが想像しているような話じゃないぜ。ただ生々しくていやなだけ。」
「生々しい?カエルとかそういうの?」

 それは笑ってしまうかもしれない。女の子みたいだ、と思っていると、非難するように半目になった丸井が、ちげーし、と口を尖らせた。

「そんなん平気だっつの。そうじゃなくて、人体解剖図とか。」
「ああ。血?」
「違うって!もう何、幸村くんからかってんの?!」
「あはは、そんなことないよ。」

 生真面目に顔を真っ赤にして怒る丸井が面白くて、思わず笑いをこぼす。中高生の生物の教科書に血液など写っているはずもない。けれどそうではないというのなら、何だというのだろう。脳みそ?などとまたからかうような言葉を口にしそうになったけど、これ以上言うと丸井は本気で怒ってしまうかもしれない。なんとか笑いを収めて丸井を見れば、未だにすこし睨みながらも、ゆっくりと口を開いた。

「こころ、ってあるだろ。」
「夏目漱石?」
「そっちじゃなくて、ここ。」

 性懲りもなくボケる俺をもはやスルーして、ここ、と言って丸井が指したのは、俺の胸の真ん中辺り。トン、という軽い刺激に、肺と心臓しかない虚空がちいさく反響したような気がした。

「ここに、何かを感じて、笑ったり、涙を流す場所があると思っていた。」
「………うん。」
「だけど、こころっていう器官はない。感情は所詮電気信号が脳みそで変換された結果で、この中にあるのはただの生命維持装置だ。」
「…………」
「俺はそんなこと、知りたくなかった。そんな、むなしいことは。」

 それだけ、と一瞬でぱっと笑みを浮かべた丸井は、空気重くなったなー、幸村くんそんなマジに取んなくていいから、ごめんね、なんてけらけら笑っている。それにつられるようになんとなく笑みを浮かべれば、すこし前の、口を開くのも躊躇うような空気などまるで気のせいだったようだ。けれど、間違いなくあった出来事だ。丸井は基本的に場の主導権を掴むのがうまいから誤魔化されてしまいそうになったけど、俺は間違いなく、丸井の思想の一端に触れた。
 丸井はキャラじゃないと思ったから茶化したのだろうし、実際キャラじゃない。即物的で、自分本位で、周りを振り回す子供っぽい奴。それだけじゃないことはもちろん知っていたけれど、テニス以外のことについてはそんなイメージしか持っていなかったのに、そんなことを考えているなんて知らなかった。
 俺はそんなこと、考えたこともない。すこし前まではそれこそ、丸井いわくの生々しい場所にいたのに。そして、美術という感受性が勝負ともいえる世界に身をおいて、そこそこの評価を得て、褒められたりもしていたのに。だけど、私生活においてはただの子供みたいな奴でしかないと思っていた丸井と違って、俺はその考えに至れない。
 丸井が触れた、生命維持装置しかないはずの虚空が、やけに重たく感じた。

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