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▼ 掴めない距離感

 掴んだ腕は妙に細くて、いつもなら勢いよく振り払われるはずの手は、弱弱しいとしか感じられない抵抗を受けて、離すタイミングをつかめずにいた。

「……コシマエ?」
「っはなせ!」

 ギッと遠山をにらむ大きな瞳は心なしか潤んでいるように見えて、戸惑う。向けられた声も怒鳴るというより叫ぶようで、違和感に眉根を寄せた。

「コシマエ、どないし、」
「金ちゃん!」

 バタバタとあわてたように駆け寄ってきた白石たちは、遠山が越前の腕を掴んでいるのを見ると、とたんに顔を青ざめさせた。

「金ちゃん、あかん!」
「白石?」

 問いかけた言葉に答えは返されず、ただいつもより細いように感じる、掴んでいた腕を離された。

「すまんな、越前くん。金ちゃんには俺らから説明しとくさかい、手塚くんたちのとこ戻り。」
「…………」

 こく、と頷いた越前は身を翻し、ちょうど部室から出てきた不二と言葉を交わして、その先の校舎に入っていった。


 *


「おんな?」
「せや。わかったか?金ちゃん。」

 白石たちからパラパラとされた説明によれば、なんでも越前は、一ヶ月前から身体が女になってしまっているのだという。原因は不明。いつもより話にまとまりがないのは、説明している本人である白石たちですらも、動揺しているからだろう。すぐに戻るだろうとそのまま男子としてテニス部に在籍しているが、戻る様子もないまま一ヶ月がたってしまったのだという。

「せやからな、金ちゃんはコシマエに今までどおりにしたらあかんで。」
「なんで?」
「……金ちゃんのパワーが強いのは、わかっとるやろ?」

 白石や、母親から何度も言われた言葉に、こくりと頷いた。自分にとっては当たり前のパワーだけど、他者と比べた時、そこに恐ろしいほどの差があるのはさすがに気づいている。パワーを誇って四天宝寺にやってきたはずの銀ですら、遠山には勝てない。
 この自分と対等に渡り合えるのは、越前だけだった。

「今のコシマエはな、おそらく金ちゃんのパワーを受けると、耐えられんのや。」
「でも、」
「さっきの越前くんは、金ちゃんを振り払わなかったわけやない。振り払えんかったんや。」

 冷ややかな声で違和感を疲れて、黙り込む。あの、弱弱しいと、じゃれていると思い込んだあの抵抗が、もし今の越前の精一杯だとしたら。

「……気ぃつける。」

 とにかく、あんな顔は、二度と見たくなかった。


 *


 越前と試合はできない。そう言われることは半ば予想していたから、越前との試合をあれだけ楽しみにしていたのに、駄々をこねることはしなかった。珍しく聞き分けのいい遠山の態度に、白石は一瞬痛ましげな表情を浮かべ、そっと遠山の頭をなでた。
 越前以外の人と試合をすることも、おそらく遠山の糧になるだろう。テニスは誰とやっても楽しい。けれど、越前とやれないという事実に、落胆は隠せなかった。
 ふと、その越前がいないことに気づいて、フェンスの外に出る。青学も、四天宝寺ほどではないにしても木が植えられ、芝が貼られている。ふらりとその中に入れば、よく目立つ白い帽子がうつむいていた。

「コシマエ……」
「なに。」

 刺々しい声に、けれど言葉が見つからずに、すとりと隣に座る。さっきは制服だったけれど、ユニフォームに着替えてきたらしい。しかし、その格好は、見慣れた青学レギュラーの証のジャージではなく、帽子と同じメーカーのポロシャツだ。女になって力が弱まったからと言って、技術がなくなっていないのだとしたら、越前がレギュラー落ちするなどありえない。だからおそらく、女であることを理由にレギュラージャージを脱いだのだろう。彼のために作られたのだとすら錯覚するような、鮮やかなジャージを越前から奪った青学の面々に怒りが沸くけれど、責めることはできないのだと理性ではわかっていた。
 越前の後姿を見つめる不二を見れば、そんなことはしたくなかったのだろうことはわかる。青学の奴らは、みな一様に自分たちのルーキーを愛していた。けれど、チームとして。大会に出ることのできないものに、いつまでもレギュラーの位置を与えておくことなどできなかったのだろう。
 女は、男子テニスの大会に出ることはできない。あたりまえの事実をこれほど歯がゆく感じたのは、初めてだった。

「わい、今日はバンダナの兄ちゃんとやって!」
「そ。俺は財前さんと。海堂先輩は厄介だよ。」
「財前かて、めちゃめちゃ強いんやで!」

 視線は白い帽子に向いて、けれど声はいつもの調子で会話する。越前はいつものようにそっけない。けれどいつもなら、こんな痛々しい沈黙は、自分たち二人の間には降りない。

「……きまで、」
「え?」
「あのときまで、オーダーは俺と遠山だったよ。シングルス1。だけど、ついさっき変えてもらった。もともと先輩たちは俺と遠山がやるのを反対してて、俺がわがまま言っただけだから、すぐ変えてくれた。」
「……なして?」

 彼がわがままを言ってまで俺の試合を望んでくれたことがうれしくて、けれど越前の表情で、それを喜ぶことに罪悪感を感じる。帽子のつばで隠れた目元は、泣いているとなぜか思った。

「やれると思ったんだ。俺はもともと、お前にパワーで対抗していたわけじゃない。それは知ってるだろ?」
「うん。」

 自分の純粋なパワーに勝てるものは、おそらく中学テニス界にはいないだろう。けれど越前は、彼のずば抜けたテクニックで、遠山のパワーに対抗していた。それができたのは、彼だけだったというのに。

「テクニックは残っている。なら、やれると思ったんだ。パワーなんて関係ない。俺のテクニックで、返してやるって。」
「…………」
「でもさっき、お前に掴まれて、無理だと思った。こわかったんだ。普段ならじゃれているはずのお前の、力の強さに。」

 こわい、と。そういわれたことが、何よりもおそろしかった。
 自分の力を他人にぶつけるとき、手加減しなければならないと学んでから、ずっとそうしてきた。けれど、越前だけは違った。
 越前は「対等」だ。誰に言われたわけでもなく、遠山も越前も示し合わせたわけじゃない。けれど、運命のように出会ったその瞬間、遠山も越前も、お互いは永遠にライバルなのだと知った。遠山はそうだったし、口に出して確かめたことはないけれど、越前もそうだっただろう。だから、越前にだけは、手加減などせず、常に自然にぶつかれた。「対等」だから、越前は受け止めてくれると思ったし、実際そうだった。けれど。
 今まで「対等」だった越前は、今は遠山のことを「こわい」という。

「……どないしたら、ええ?」
「今までと同じでいいよ。邪魔だって言うくらいできる。」

 越前の言うように、今までも「どいて」だとか「重い」だとか言って、へばりついた遠山をどけることはあったけれど。
 今までのうっとうしげな、けれどどこか許容しているような声と、女になった今のすこし高い声は、きっと意味が違う。

 ゆっくりと、隣に座る越前の身体に両腕をまわした。徐々に腕に力をこめていけば、身体の細さがよくわかる。以前は細くても硬い筋肉がついていたはずの肩や両腕は、今は筋肉はあるものの、滑らかでやわらかい。いつものようになど、できるはずもなかった。

「―――だいっきらいだ……!」

 ゆるゆると抱きしめた腕の中で、ちいさくちいさく漏れる叫びなど、ありえる筈もなかったのに。



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