※大学生、日吉独り暮らし
たったったった、使いこんだスニーカーが跳ねる。
寒さに重みをもたすような雨が降った後の空気はじっとりとつめたくて、手先や頬はもう感覚がない。
でも走っているせいか、それともこの後が楽しみでしかたないせいか、皮膚の一枚下は熱くて、この感じも久々だなぁ、なんて思った。
見慣れたマンションのエントランスが見えて、一直線にエレベーターの前までいって勢いのままにボタンを押す。そのあいだに何回か深呼吸をくりかえして、呼吸をととのえる。こんな俺だって、すきなこの前ではカッコよくありたいと、そう思うことくらいあるのだ。
「おはよう、ひよし!」
「おはようございます、ジローさん。早かったですね。」
たいてい寝坊して遅れるせいか、時間通りに来たおれに日吉は驚いたような顔で出迎えた。いつものように日吉に抱き着こうとしたおれにいつものように抵抗しようと手を掴んで、思わずといった風にぱっと手を離した。
「つめたっ…。あんた手袋とマフラーは?」
「じゃまだから持って来てないC〜」
えへへ、と笑うと、日吉はお得意の呆れと困惑を足して2で割ったような表情を浮かべた。おおきくため息をつくと、ぐい、とおれの手を引く。
「ひよしー、だいじょぶだって。どうせすぐにあったかくなるからさー」
「そう思うんだったら最初から手袋くらいしてきてください。」
リビングに入ると暖房独特のもわっとした空気が顔面に直撃して、冷えていた鼻の頭がじんわりとした。
こたつのところでおれの手を離して台所に向かった日吉は、おそらく熱い緑茶を淹れてくる。だけど、今日はそれは勘弁してほしい。
「ねーひよー」
「なんですか。」
「おれ今日冷たいの飲みたE」
「…は?」
おれの前に戻ってきた日吉の手には既に湯呑みが乗ったお盆が乗ってて、それを前にして言うのだからおれは相当空気が読めない。
「あんた何言ってんですか。一応言っておきますけど今真冬ですよ。さっき夜にはみぞれ降るって言ってたんですよ。ダメに決まってるでしょう。」
「だってさー、今日走ってきたんだよ?だから喉渇いたC〜」
「だ、め、で、す。」
コトン、と置かれた白地に雪の積もった木(松です、って言われた)の柄の湯呑みをじっとりと睨む。喉は乾いているのでいますぐこれを飲みたい。しかしこれを飲んだらやけどをすることは確実だ。普段は日吉と話しているうちに冷めてしまうから問題なかったのだけど。
「ねーひよしー」
「それでも俺のよりは熱くないんですよ。」
「それは知ってるCー」
「…知ってたんですか。」
驚きたかったのだろう、けれどそれよりも照れが先行してしまったのか、微妙な表情で固まった日吉にえへへ、と笑う。
「ガラララ、ってね。氷の音が聞こえるの。」
おれを居間に置いてすぐ日吉が台所に立つと、季節問わず聞こえる音。なるべく音を立てないようにしてるんだろうけど、日吉の家は静かだから聞こえてしまう。
夏ならともかく冬に日吉が氷を使うわけはないから、つまりそれはおれのためだ。その音を聞くといつも嬉しくなる。ちいさいけど、日吉がくれる特別のような気がして。
「ひよし耳赤いC〜」
「…仕方ないですね。」
するり、立ち上がった日吉に目を細める。照れると目を合わせずに話を逸らす、そんなところを久々に見た。最近はいろいろ慣れてきたせいか、滅多に見なくなってちょっとつまらなかったのだけど。
「ひとつだけですよ。」
ぽとん、お茶がなるべく跳ねないように、大きな手からそっと落とされたそれは、すぐにパチパチと音を立てて弾ける。
ぱちん、ぱちん、
おれの中からも、同じ音が聞こえるのは、きっと気のせいじゃない。
親愛なるみたちゃんに捧ぐ。