睡眠 | ナノ
×
- ナノ -

 世界でいちばん深い赤

ガタン、バサバサ

椅子が勢いよく後ろの机にぶつかる音と、その衝撃で机の中にあった教科書が落ちる音がした。
ちくしょう小野のやつ、ちゃんと机の中整理しとけよ。
八つ当たり気味にそんなことを思いつつ、立ち上がったせいで斜め下の位置にあるその翠の目を睨みつけた。
どちらも口を開かない。昼休みの教室は、気付いてないのか関わりたくないのか、いつものように騒がしい。けれど、その喧騒がどこか遠いところから聞こえてきているかのように、全く耳に入らない。
視線は少しも逸らせないまま、どのくらい過ぎたのか。ひどく長く感じた非生産的な行為を先にやめたのは、赤也の方だった。
おもむろに視線を外し、ひどく冷たく見えたその翠を瞼で隠して、おおきなため息をつく。
バカバカしい、そう言わんばかりのその態度に、カッと頭に血が上った。


「っ…!」


ガン、と今度は赤也と私の間の机が揺れる。思わず蹴りあげた右足がジンジンと痛いけど、そんな素振りは見せないように踵をかえす。
一歩を踏み出したところで、おい、といつもより低い声に呼び止められた。


「小野の机、戻していけよ」


何事もなかったかのように淡々と投げられた言葉にひどく惨めな気分になった。


「……っ死ね!」


結局そんな陳腐な言葉しか出てこない自分がまた惨めでしかなくて、逃げるように教室を出た。



結局すぐにチャイムは鳴って、授業をサボるなんて度胸はない私は教室へ戻った。
赤也は既に自分の机で俯せていて、私の机も小野の机も何事もなかったかのように戻されていて、ただ周りの窺うような視線と、それを意識して強張ってしまう体だけが、さっきの出来事が私の夢でも妄想でもないことを教えてくれた。





埃っぽいここはかなり長い間掃除の手が入ってないだろう。というより掃除のしようがないと言うべきか。
長らく開いたことのない扉の向こう側は周りより一階分低い屋上だ。
海友会館の屋上は、校舎の老朽化による安全性の問題で開放されていない。そのせいか踊り場から屋上への出入口までは、体育祭や海原祭などで使ったであろう荷物が乱雑に置かれている。
こんな所に来る生徒はもちろんいないから、根本的にひとりの気楽さを好む私はよくここに来ていた。だから、ここは赤也も知らない。顔を合わせたくない今はぴったりだ。
階段の一番上に座り込めば、一階から五階分を休憩なしで駆け上がってきたせいか、ドクドクと血が巡っている音が耳の奥から聞こえてくる。
ふぅ、と乱れた息を整えるようにゆっくりと呼吸をして、斜め上を見た。
四角く切り取られた真っ青な空に、掴めそうなほどおおきくて分厚い、白い雲。空気の通りが悪いせいで廊下より一層蒸し暑く、汗ばむ服に夏を実感した。


「夏なんか、来なきゃよかったのに。」


夏、テニス。
ふたつがイコールで結ばれているあいつは、夏が近付けば近付くほど私をほったらかしになった。
別に構わないと思ってる。私だって好きなことをするときは赤也をほったらかしにするからお互い様だと思うし、それは前からわかっていたことだ。それはいい。
ただ、来週末にあるという試合のことを教えてくれず、あまつさえ友人から得た情報を確かめた、仮にも彼女である存在に向かって、試合に来るなとはどういうことだろう。
行っていい?と問い掛ける間も与えず、来るな来るなの一点張りの赤也にカチンと来て、じゃあ勝手に行く、そう言ったとき、す、と翠の瞳が急激に冷えたのが見えた。
いつもキラキラと光輝いていたはずの大好きな目は、その瞬間つめたく光を反射する翠玉になった。

『来んなっつってんだろ。どうせテニスのことなんてロクに知らねーくせに知ったようなこと言ってんじゃねーよ』

一瞬、何を言われたかわからなかった。それほどの強さで、彼の言葉はこの胸をえぐったのだ。
確かに赤也に出合うまで、テニスやテニス部には全くと言っていいほど関心がなかった。おそらく彼のファンなんかの方が、赤也のテニスについてよく知っているだろう。だけど赤也は、それでいいと言ってくれたし、私もこれから知っていこうと思っていたのに。
私が赤也のことを全然理解しようともしていないような、そんな言い方されて、黙っていられる訳がなかった。

赤也のテニスをしている姿を見るのは、それを日課にしてしまうほど楽しい。
ひどく楽しげで、負ければ全力で悔しがって、時にはにやりと不敵に笑う。
私の前ではつくられない、そんな赤也を見ていたい、ただそれだけなのに。
緩慢に立ち上がり、視線を正面に向ける。方向から考えればテニスコートがあるはずのそこには、向かいの校舎の五階が見えるだけだった。





そろそろ部活も終わる頃だろうか。いつもだったら部室の近くで赤也を待って一緒に帰るのだが、さすがに今日は気まずくてそんなことはできない。そもそも赤也もそんなことする気はないだろう。
夏に近づいているとはいえもう真っ暗だ。いい加減帰らなくてはならない。けど、動きたくない。
ぼんやりと座り込んでいると、バタバタと階段を駆け上がる反響音が響いてきた。警備の人が来たのかもしれない。いい加減帰らなくては、と立ち上がりかけたとき、パ、と周りが明るくなり、踊り場で白が揺れた。


「っ見つけた!」

「…え?」


赤也?
言いかけた言葉は、音にはならなかった。
タン、タン、タン、タン!一段飛ばしでここまで駆け上がってきた赤也が、べたりと目の前で座り込んだ。


「ったく、なんでいつものとこいねぇんだよ」

「え、だって…」


むしろなんでケンカなんかなかったかのように振る舞っているのか。昼休みといい今といい、今日の赤也はよくわからない。


「悪かったって」


よっぽどひどい顔をしていたのかもしれない。困ったように笑いながらぐい、と引き寄せられた。


「っわ!」


いきなり引っ張られたせいでバランスを崩し、勢いよく倒れこんだのに赤也はびくともしなくて、ああ男の子だなぁ、と少し場違いにも思った。


「大会に来て欲しくないのは本当。でもあんなこと思ってたわけじゃねーから」


ぎゅう、と抱きしめられて、ワイシャツの擦れるしゅるりという音がした。
首のあたりがトクトクとふるえている。赤也なんか一気に駆け上がったってそんなに息切れしないはずなのに。それともこれは、緊張、とかだろうか。


「なんで、とか、…聞いてもいい?」


ああ、私まで緊張してきたかもしれない。耳の奥から聞こえる音と、赤也の首から聞こえる音。何回かに一回重なるときを探して、耳をすました。


「……勝たなければ、ならないから」


しばらくして、ぽつりと零れたような声は、ひどくか細かった。背中にまわった腕に力がこめられて、少し苦しい。


「幸村部長のためにも、立海のためにも、俺のためにも。何があっても、どんなことをしても、勝たなきゃいけないから。だから、俺は、」


何をしちまうか、わかんないから。だから、見せたくないんだ。
搾り出したような言葉は、いろんな感情が混ざってるみたいでひどく苦しげだった。
どんな感情かはわからない。私はまだそのことを知らず、そして知るにはまだ早いのだ。


「いいよ、赤也。大丈夫、今回は、見に行かない」


同じように首に手をまわせば、トクン、また重なった。
私の言葉に安心したのだろうか、ふぅ、と赤也がついたため息が首筋にかかって少しくすぐったくて、わずかに身じろぐ。
それにく、と一回笑った赤也は、するりと腕をほどいた。


「ありがとな」

「ん、」

「いつか、いつか必ず呼ぶから」


ゆっくりと立ち上がって、私の荷物も持ちながら手を差し延べる。耳の奥で音がする。


「それまで、待ってろ」

「…うん、わかった」



いつか、いつか見れるときがくる、そう確信できた。だって、どれだけすれ違ったとしても、この鼓動はいつか必ず重なるのだから。



世界でいちばん深い赤





title by まばたき



prev|next