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 美にして善なるもの

アニメ設定柳生


 さっきまで眩しいほどに差し込んでいた夕陽は、気を利かせた柳生くんが閉めたカーテンによって、この視聴覚室にぼんやりと橙色の空気を残すだけになっていた。二人掛けの机が三列、その一番左の前から二番目、それが、風紀委員会の3−Bの席、つまりは私の席だ。いつもなら委員会が終われば帰宅部である私は早々に帰って、下校しながら夕陽を眺めることも多い。なのにこんなだだっ広い教室で光の名残を感じているのは、帰宅部である私に委員長の真田くんが仕事を押し付け、それに今目の前にいる柳生くんが手伝いを申し出たからだ。委員長はこの後の部活がない私にこの仕事をさせたかったようだけど、仕事の量をみた柳生くんが手伝うと言い出したのだ。とはいえ柳生くんもテニス部、しかもレギュラーだ。委員長は嫌がっていたけど、女性一人にこの量をやらせるなんて、という柳生くんに結局は折れた。ただし、柳生くんは5時までに部活に来る、という約束で。
 とはいえ、毎月この仕事をしている私は慣れたものだ。去年まで生徒会にいた柳生くんは知らなかっただろうが、一年の早々に帰宅部になった私にこの仕事が押し付けられるのは二年あたりから毎月のことだ。役職持ちでもないのに、風紀委員会の仕事は委員長よりも知っているだろう。

「柳生くん、ここは多分、こう。」
「……ああ、すみません。」

 多分、と言いながら見本を示してあげれば、柳生くんは謝りながら素直に訂正した。紙が傷つかないよう丁寧に消しゴムで擦って、消しカスは机の隅に。床に落として、自分の周りを汚すようなことは絶対にしないのだろう。彼の周りは常に整っている。それはいっそ恐ろしいほどに理想的で、美しい。ああなれたらいいのに、と思いながら誰もなれない理想を、彼は呼吸をするように体現してみせる。そして、あまりに整いすぎているから浮いてしまうのに、彼はそれを気にする様子もなく、むしろ堂々として逆に彼の個性に仕立て上げている。すごいな、と思う。よほど強くなければ、あれほど丁寧な生き方を貫くことなどできないだろう。羨ましい、と思う。憧れるには、すこし遠い。

「柳生くんはさ、」
「はい?」
「去年からテニス部に入ったのに、もうレギュラーなんだよね。」
「そうですね、仁王くんや、他のレギュラーの方のお蔭です。」

 前触れなく口を開けば、彼は一度は手を止めてこちらを見たものの、私が視線を手元のプリントに落として手を動かすのを見て、すぐに自分も仕事を再開しながら会話を続ける。あからさまな嫌みにも動じる様子はない。どこまで完璧なのだろう。彼が取り乱すことなど見たことがない。これからも、私が見ることはないだろう。

「前はゴルフ部だったんだっけ。」
「ええ。」
「なんでゴルフだったの?ていうかよくテニス部に移ろうと思ったね。」

 完全なる興味で畳み掛けるように質問すれば、私に対してか、それともその質問に対してか、彼はほんのり口の端をあげて、苦笑いのような形を作った。お恥ずかしながら、などと相変わらず丁寧な前置きをして、なぜか荒れていない口唇を開く。

「ゴルフは、あまり動かないでしょう。」
「……ああ、そうだね。」
「私は、汗が嫌いなんですよ。ベタベタとして、汚ならしい。だから、あまり汗をかかないイメージのある、ゴルフ部に入部したんです。まあ実際はスポーツなので、多少なりとも汗はかくのですが。」

 表情を変えぬまま告げられたその裏話に、私は唖然とした。冗談、なのだろうか。あまりそんな風には見えないけれど。しかし、目の前の彼はそのまま、冗談ですよとも本当ですとも言葉を続ける気配がないので、とりあえず本当だということにして質問を重ねた。

「じゃあなんでテニス部に入ったの?テニスってすごく汗かくよね。」
「そうですね。仁王くんに勧誘されたんですが。」
「でも、」

 普通、同級生に勧誘されたくらいで、部活を変えるだろうか。それも、始めたばかりではなく、一年以上もその部活を続けてきたというのに、いきなり素人同然のテニスを始めよう、などと。
 ゴルフに執着がなかったのなら、ゴルフ部に嫌気がさしていたのなら、もしかしたら有り得るかもしれない。けれど、彼は惰性で何かを続けるようには見えない。彼の行動には全て理由があり、その理由に基づいて丁寧に動く。そんな柳生くんが、それだけで転部などするのだろうか。

「汗をかいている姿を、美しいと思ったのは初めてだったんです。」

 あなたも、そうじゃないんですか。

「美しい人の側にいれば、美しくあれると思ったことが、あるんでしょう。」
「……あったね。」

 間違っていると知ったのは、早かったけれど。
 それでもまだ美しいものに惹かれる、こんな私はひどく醜いから。

 美しさよりも至上なものを、私はずっと探している。



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