これを輪廻と言うならば
逃げたって何も変わらない――そんなこと、ずっと前から知っている。
それでも、逃げた。
ばんっ、と派手な音を立てて眼前に腕が現れる。懸命に動かしていた足を慌てて急停止させ、その腕に飛び込んでしまうのを防いだ。
休みなど微塵もなく切り返し、反対側へ走ろうとする。けれどそれも、もう一つの腕に阻まれてしまった。
背には壁の固い感触。もう、どうしたって逃げられない。
「なんで逃げるんだよ」
「……トウマが、追いかける、から」
息が切れているのは自分だけで、彼は全く呼吸が乱れていない。当然といえば当然だ。せいぜい十数メートルくらいしか走っていないのだから。こんなに息が上がるのは、走ったからではないから。
でも、惜しかった。もう少しで自分の部屋だったのに。この階段を上りきれば、逃げ切れたのに。
「シリル」
うつむき、本を強く抱きしめる。これだけが、彼との唯一の壁だったから。
「……どいて、トウマ」
なるだけ冷静に聞こえるよう言ったはずだった、震えて小さな声。名前を呼ぶのは、きっと回数が限られてしまっているから。
彼の名前を彼に向かって、私はあと何回言えるだろう。
最後に呼ぶ瞬間は、あなたを殺す時?
それとも、あなたに殺される時?
「……なんで……っ」
鼓膜を震わせる悲痛な叫びは、自分のものではなかった。
「なんで……やっと、やっと俺達……!」
分かり合えた、のに。
出来ることなら、あの紅い魔族の少女のように、全て夢なのだと思いたかった。
悪い夢。
覚めたらみんなが笑っていて、贄神なんかいなくて、ただ、あなたが傍にいて。
――そんなこと、誰も許してくれるはずないのに。
不安を抱えて空を見上げる人々や、今あの船でたった2人で戦う王達、向こうにいる仲間ですら。
世界全てが――許してくれない。
脚が力を無くし、立っていられなかった。座り込んだからって、強くなれる訳じゃない。でも、それでも、と思う。
聖剣なんかいらない、なんて言えなかった。
膝をつく気配がして、遠ざかったはずの彼がまた近くなる。
「……約束したのに、な」
一緒に贄神を倒そう。その約束はとても嬉しくて、残酷だった。絶対に不可能じゃないか。一緒に、なんて。ありえないのに。
私はただ、幻想に浸りたかっただけ。
ふわりと、抱きしめられた気がした。
頭の中はずいぶん前からぐちゃぐちゃで、それも都合のいい幻想なのかもしれないけれど。
「……ふ、ぅ……っ」
暖かかった。
だから、泣いてもいいかな、と思う。
あの生真面目な彼は――ゼナスは、こんなのは初めてだと言っていた。
こんな風に2人の聖剣の主が近くにいて協力しあい、共に歩むのは。
なのに、そう言うのに、彼は。
忘れないで欲しいと言うのだ。
今までの主達はこんな残酷な試練を越え、世界を救ったのだと。
逃げられないものなのだ、と。
これを輪廻と言うならば、
私とあなたに起きた奇跡は、
いったい何だというの。