愚者はとっても優しいのね
最近、あの少女は自分やヨシュアになつくようになった。
楽しい話もしてやれない、少女に合わせて遊んでやることもしない。そんな自分たちのどこがいいのか?
直接聞いたことは、まだない。
ただ、少女は言う。
自分の膝に乗り、あるいはヨシュアの隣に身を寄せて座り。
『──やっぱりレンは、ここがいちばん好きだわ』
部屋に入ってまず驚いたものは、ソファで静かな寝息を立てているヨシュアの姿だった。
彼の隣で肩を支えていた紫の髪の少女が、口元に人差し指をあてて「しぃーっ」と注意する。
そうしてヨシュアを起こさないようにそっと、出来るだけ慎重に彼の隣から出てくると、ドアの前に突っ立っていた自分の前まで来て得意気な笑顔を浮かべたのだった。
「あのねレーヴェ、ヨシュアったらレンが起きたらねてしまっていたの。とってもめずらしいとおもわない!?」
舌足らずな少女の言葉を穏やかな気持ちで聞きながら、ヨシュアに視線を移す。
確かに、ヨシュアが誰かの側でこんなに無防備に寝ているのは珍しい。“人形”になってしまってからは、自分の前ですら素の姿を見せなくなった。それを、この少女の前で?
思考を巡らせながら、自分もヨシュアの向かいのソファに座る。息をひとつ吐き出すと、太股にずしりと何かが乗っかった。
──今では少し慣れてしまった、少女の儚げな体重だった。
「ヨシュアはね、レンがいきなりねむいわって肩にもたれても、いつもなにも言わずにいてくれるの。レンが起きたときにさむくないように、毛布もかけてくれるわ。それにそれに、たまにだけどおはようって言ってくれるのよ!」
無邪気に、嬉しそうに、少女は笑う。精一杯言葉や気持ちが伝わるように、けれどヨシュアを起こさないよう、小さく抑えた声で。
あぁ、ヨシュアはまだヨシュアのままだと、深いため息をついた。
変わっていない。いくら脳を弄られようが、他人の喉を掻き切ろうが。
心臓は正しく打ち──魂は澄んだままだ。
「──レーヴェ?」
「……いや……」
覗き込んできた少女に首を振る。
何を否定しているのか、忘れようとしているのか、分からなかったけれど。
こちらを見上げる、ヨシュアと同じ色の目と視線を合わせる。彼とは違う、無垢な琥珀。
その目がふと、柔らかく笑んだ。
「……レーヴェも、そう、あたたかいわ。ヨシュアと同じね」
無意識に、否という字が脳裏に浮かぶ。
違う。ヨシュアとは何かが、決定的に。
「──……暖かいはずがない。俺は、ただの愚かな人殺しだ」
少女から笑みが消える。
さっきまでの生暖かい空気が、すっと冷やされるようだった。
「任務であれば遂行する。剣を突き立てる相手が、無邪気な少女であっても」
修羅──それは強く、愚かだ。
分かっていて、自分はそれを選んだ。
「ヨシュアとは、違いが大きすぎる」
「……わからないわ」
それが少女の口から放たれた言葉だと気づくのに、一瞬の間があった。
それはあまりにも大人びた、不機嫌な声だったから。
「ひざまくらをしてくれる人を嫌いになれっていうの? 頭をなでてくれる人をこわがれっていうの? そんなの、そんなのぜったい無理なんだから」
小さな指が、シャツを掴む。少女は眉をぎゅっと寄せて、泣き出す寸前のような顔をしていた。けれどその目から涙が溢れることは、ない。
なおも言葉を紡ごうとする少女の手首を掴む。少し力を込めれば、折れてしまいそうだった。
「……俺は冷酷な──いや、冷たい人間だ。修羅を選んだ、愚かな者の一人だ」
少し強い口調で言い放つ。錯覚や欺瞞は、出来るだけ早い段階で砕くべきだ。
少女の目は、さらさらとした髪に隠されて見えない。けれど少し開いた唇が、やがて小さく言葉を呟いた。
「あたたかいの反対は、つめたいなのね」
「……あぁ」
「じゃあ、愚かの反対は?」
「…………」
少女が顔を上げる。
どこか嬉しそうな、悪戯好きの子猫の表情。
くすくす。少女は楽しそうに笑う。
「よかった。愚かの反対は賢い、でしょう? もう言いのがれはできないわ。レーヴェは、あたたかいんじゃなかったのよ。やっぱりヨシュアと同じね」
意図の分からない言葉に呆然とする自分に、少女は顔を近づけて、問う。
「ひざに乗せてくれたり、頭をなでてくれたり。そうやってうれしいことをしてくれるレーヴェを、世界では愚か者だっていうのね?」
「いや……」
どうしたらそういう結論になる。
反論しようとした瞬間、少女が首に飛び付いてきた。驚くほど細く華奢な腕で、力の限り抱き締められる。
恐ろしく離れ難い抱擁。容易く離すことが出来るからこその、愛しさ。
最小限の力で少女を抱き上げる。
そうして頭を撫でてやると、
「──やっぱり」
微かな声が、首元から聞こえた気がした。