ドローイングワールド




 依頼者が人の良い女性で、尚且つ切羽詰まったように頼み込まれたのでは、エステルがその依頼を断るはずもなかった。そして自分も、油断していた。さっきから組んだ腕を解かないのは、そんな自分が腹立たしいからだ。



 賑やかな酒場は宵闇の中でも尚明るく、酒気の漂う空間が時間を忘れさせてくれる。その中心、腰ほどの高さのステージ上には、朱塗りの棒一つで舞う華奢な影がある。傍らで奏でられる淑やかな弦楽に合わせ、時には断ち切り、観衆を引き込んでいく。栗色の髪が従順に跳ね回って、舞の激しさを緩和していた。
 彼女の素顔は白の仮面に覆われて見ることは叶わない。が、自分には彼女が仮面の下でどんな表情をしているかが手に取るように分かった。だからこそまた苛立ちが増す。おそらく楽しそうに頬を緩めているであろう彼女は気づいていない。ただ演舞に感嘆する人々の中には、下世話な視線を寄せる者も居ることに。だから、と思う。

(着替えた方がいいって言ったのに)

 スパッツ履くし気をつけるから平気よと胸を叩いた彼女は、そちら方面に対する自身の警戒レベルが著しく低いことを自覚していない。男共の興味は時に中身だけでなく翻るスカートそのものに向けられることもあるのだが、それも彼女には理解出来ないだろう。
 舞は最高潮に達していた。旋律はより激しくなり、既に警戒を忘れて夢中になっていた彼女は棒具を一際大きく一閃させた。翻る。翻る。表情を隠しても尚彼女は輝いていた。

 野太い歓声と拍手が、意識を引き戻した。思わず手で口元を覆う。不覚にも。
 ステージの彼女は歓声に手を振って応えていた。その顔に仮面はもう無く、上気した頬と潤んだ緋色の目が嬉しそうに綻んでいる。これはいけない、と歩み寄る足が速くなる。優雅に一礼なんて柄じゃないのは分かっているけど、だからといって。

「なぁ姉ちゃん! こっちで踊れよぉ!」

 叫んだのは明らかに酒の匂いの強い男だった。やはりというか何というか。その一角の男達が、彼女を眺めながら何らかの相談を交わしていることには気づいていた。それは酒の場だけの軽い冗談かそれ以上か、なんにしろ。

「今度はもう少し色っぽい格好でな!」

 ため息は上手くいかなかった。穏便に済ませろ、と自分を叱咤する。その甲斐あって、苛立ちは表情から先ほどまでの苦笑いが消えた程度に治まった。素早く周囲を見回すと、人々の表情はほぼ一様に呆れ顔だった。おそらくこういった事態は頻繁に起きているようで、それならばこの男達の対応に遠慮はいらないだろう。反対に『酔っていない時はいい奴ら』だなんて、やりにくいことこの上ない。少なくとも、今だけは。

「こっちで酌でもしながらさぁ」
「はぁ? あんたたち一体なに言って」
「――エステル」

 いつかのナンパでの応酬はもう御免だった。一々反応の良い彼女をからかうことが楽しいのは知っている。だからこそ。

「終わったみたいだし、行こう?」
「ヨシュア、でも……」
「いいから。おいで」

 ステージの下から差し出した手と顔を見比べて、何故だか彼女は頬を赤らめた。不可解に思いながら、目を逸らして遠慮がちに伸ばされた手を掬いとる。飛び下りた足音は軽い。舞台袖から走り寄ってきた依頼者の感謝をほどほどに受け取って、酒場を後にする。

 例の男達の横を通り過ぎざま、不穏な言葉も受け取った。明らかに自分にだけ聞こえるよう呟かれたそれを、無視する気は無い。穏便を基とする自分にとって、それは願ってもない話だ。演技でもない、それは自然に溢れた笑みだった。

「また、後ほど」

 暴力は好まない。可能ならば避けるだろう。
 けれどだからといって、苦手という訳では、決してない。





 出発の日は快晴だった。カーテンを開けたついでに窓も開けておく。朝陽が窓に程近いエステルのベッドに降り注ぎ、彼女の睫毛や髪を輝かせた。

「……んうう、おはようヨシュア」
「おはよう、エステル」

 傍らに腰かけて、柔らかい髪を梳く。彼女はしばらく微睡んだあと、突然かっと目を見開いた。

「ヨシュア……一昨日の夜、どっか行ってた?」
「え?」
「酒場で演舞した日の夜」
「えっと……まぁ」

 真っ直ぐな、けれど無垢なだけではない瞳が見上げてくる。嘘は好まない。彼女が相手では尚のこと。可能ならば避けたい。嘘。確かに苦手では、ないけれど。
 沈黙は肯定だった。目を逸らさなかったのは懺悔に似せていたからだろうか。

「一言でも、言ってくれればよかったのに」
「……ごめん。後ろめたい、というか」
「うん」
「汚いこと、を、してる気がして」
「綺麗な人が好きだなんていつ言ったの」

 ごめん、と繰り返そうとした口に指が触れた。それが持ち上がり、額に激痛が走る。離れる指の形で何をされたのかを理解した。容赦のない力とは逆に、エステルの表情は晴れやかだった。

「ばか。……でも、ありがと」
「え」
「手引いてくれたの、嬉しかったんだから」


 恥ずかしいほど素直な言葉が好きだ。自分がそう在れるかは別としても。
 明るく彩られた言葉が、苦手ということは、決してない。


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