電車の扉の側で待ち受け画面を見てはため息をつく自分の動作を、向かい合う先輩はただ無表情に見つめていた。ただ静かに、この行動の意味を読み取ろうとしている。何かがその目の中で積み上げられていくのが見えた。何らかの目的への手順、打算、例えばそんなものが。それは電車を降りるまで続き、自宅へ向かう道すがら、その積み上げてきたものがじわじわと会話の中に混ざってくる。
 決定的にそれが嫌悪に変わったのは、エレベーターの中でだった。

「ノエルちゃんさぁ、いつ俺のこと名前で呼んでくれんの?」

 名前。
 その単語がひどく白々しい。だって、名前にはふつう、匂いがついているのではないのか。名字には無い、呼吸の匂いみたいなものが。一緒に遊んだこともある。仲良く、優しくしてくれた先輩。だから?
 どういうつもりであなたはここに来たの。


 陰鬱とした気持ちでいたせいか、開いたエレベーターの扉の向こうに幻覚が見えた。自分の部屋の辺りで壁に背を預けた、華奢な姿。佇まいだけは普段を装って、その実不自然さが際立っている。彼はうつむくことを好まないのに。

「……わ、」

 走り出していた。あれが実体か否かを確かめる為に。けれど半分くらいの確信はあって、疑ったのは後ろめたさ故なのかもしれなかった。
 ちょうど腕を伸ばせば二人の指先同士が触れる距離。立ち止まると、靴音が通路に反響した。冷たい色の瞳がこちらを向き、形のいい眉がゆっくりと寄る。どうして彼はこうも、他人の目を惹く所作をするのか。しかしよくよく見れば視線は交わっていない。彼が見ているのはもう少し後ろだった。

「ちょっと、ノエルちゃん」
「先ぱ、」
「いきなり走ったから何かと思ったわー。なに、友達?」
「いえ、あの」

 友達という言葉に対して、咄嗟に出てきたのは否定の言葉だった。なぜだろう。ならばこの関係は何と言えるのだろう。『友達』と『恋人』という言葉だけは、躊躇なく否定出来るのに。

「――友達、なんかじゃあないよね? ノエル」

 息が詰まる。中性的、というよりは性そのものを感じさせないのが普段の彼だった、はずだ。笑っている。男の子の顔をして、笑っている。先輩が驚いたようにこちらを見るのが分かった。あぁこの人はきっと、彼を少女だとでも思っていたのか。決定的に違う。彼の姿がいくら清廉で潔癖であろうとも、性別と経験だけは拭えない。彼は男であり、行いは決して清らかではなかった。

 大きなため息は先輩のものだった。悪意を剥き出しにした仕草と声は、自然に身体をすくませる。

「先に言っといてくれれば、さぁ……」

 帰る、とだけ言って先輩は背を向けた。そのことに安心している自分に腹が立つ。勝手な人間だ。彼を呼吸の領域に入れたくはなかった。その証拠に、この足は喉は、彼を少しも引き留めようとしない。自分は自分が嫌いだった。

「追いかけなくていいのかい?」

 何を白々しい、と思う。全部分かっていて、ああ言ったくせに。笑ったくせに。
 睨み付けてしまっているのは分かっていたけれど、どうしようもなかった。それを彼はどんな意味で受け取るだろう。なんだか浮気がばれた二股女みたいな状況だな、と思う。事実とはまるで違っていたとしても。

「……メール、しなかったじゃない」

 少し膨らんだ彼のポケットを見下ろす。その中にあるものを使っていてくれれば、作りすぎたシチューの処理にも、強引な誘いにも、困ることはなかったのに。
 は、と乾いた笑い声が聞こえた。いつものように簡単な謝罪と軽口が返ってくる、ものだと。

「ああ、せっかく僕がいないと思って連れてきたのにね。誤解されたかな?」

 誤解。誰に、何を、どんな風に。

「久しぶりだよ、この状況。修羅場って怖いね。ノエルは初めて?」
「……なに、が」

 咄嗟に声が出なかったのは、少なからず衝撃を受けていたからだ。彼の声に滲むのは、微かな軽蔑だった。いや、どうだろう。それほど複雑ではないかもしれない。ただ突き放そうとしている、という予感だけが、冷たい水みたいに胃袋を舐めていった。
 でも安心してよ、と彼は言う。奇術師にも似た手つきで取り出したのは、黒猫のキーカバーがついた鍵だった。見覚えのありすぎるそれからカバーを外して、微笑む。

「もう来ないから」

 彼は通り過ぎざま、するりとポケットに鍵を滑り込ませた。もちろん彼のポケットではない。
 これはいけない、と思った。そうとしか思えなかった。ポケットに手を突っ込む、軽い金属を掴む、その腕を振りかぶる。全てが衝動のままの行動だった。


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