花繕い


「あぁ、ちょうどよかった! 申し訳ないのだけどあなた達、少し手伝っていってくれないかしら」

 届けた本には目もくれず、司書のキャロルは書類にペンを走らせたままそう言った。カウンターの近くには運んできた本の数倍量の本が積まれていて、しかもその隣には書類が乱雑に放り出されている。いつもは平然と仕事をこなす司書が、なぜか今日に限って処理に手こずっているようだった。

「俺は構いませんけど……何かあったんですか?」
「んー、学生には言えないことよ。とりあえず、本を書架に戻すのを手伝って欲しいんだけど」

 時間、大丈夫? と聞いたのはどうやら彼女に向けての質問らしかった。思わず彼女の様子を窺いそうになって、慌てて自制する。彼女は彼を待たせている。残るはずがない。

「……大丈夫、です。私も手伝います」
「え」

 若干震えた声で、けれどどこか決心したように彼女は言った。どうしてだ、と疑問が渦巻く。今日は彼が待っていないのか、そんなはずはない、彼はこの一週間で迎えに来ない日は無かった、ならどうして。唖然として振り返ると彼女は床に視線を落として、口だけを微かに動かしていた。ごめんなさい少しだけと、そう言っているように見えた。耐えるようにも、祈るようにも見える表情で。
 それを見て胸に湧いた暗い喜びの名前は、なんだったのだろう。





 苛々した。
 何に。
 今、誰よりも彼女の近くにいるトリスに。誰よりも彼女を分かっていると言った彼に。そしてそれを受け入れた彼女に。
 どうして。
 なぜだか自分は、彼女に秘密を話して欲しかった。頼って欲しかった。彼ではなく、自分が彼女を守りたかった。具体的な勝算が無くても、学院祭の準備に支障が出ようとも。
 合理的じゃない、のになぜ?
 分からなかった。体験したことがない感覚だ。わがままなんて諦めて生きてきたはずだった。ましてや独占欲なんて。
 合理的でいられない理由がどこにあるのか、いくら考えても答えは出なかった。





 それは幾つかの失敗と、幾つかの奇跡の結果だった。
 まず失敗。それは自分の油断に他ならない。忘れてはいけなかったのだ。今現在、彼女が常に憎悪の対象になっていることを。答えの出ない自問自答を繰り返して、目を逸らしている時ではなかった。何もかもを隅に追いやって、ただ彼女を気にかけるべき瞬間だった。この後悔はしばらくの間、もしかすると一生、心に引っかかり続けるだろう。自分がきちんと二階から乗り出す彼女を見上げていれば、背後から忍び寄る影に気づけていたはずなのに。
 次に奇跡。彼女が危なげなほど身を乗り出していたこと。思い切り突き飛ばされて勢い余った彼女が障害物にもぶつからず、加えて頭から落ちなかったのは、このお陰と言っていい。
 後は、偶然だ。たまたま、必死になって伸ばした腕が彼女に届いた。それだけのこと。


「――アリサッ!」

 ほぼ滑り込みに近かった。宙で一回転した身体が信じられないほどゆっくりしたスピードで落ちてきて、けれど自分の動きもどうしようもなく遅くて。また視界に赤がちらついた気がして、けれどなりふり構わず手を伸ばしたら、届いた。赤の代わりに視界を埋め尽くしたのは金色だった。思っていたより強い衝撃に目を閉じる。それでも落下時の衝撃を緩和することだけを考えて力を込めると、比喩ではなく本当にまぶたの裏が真っ赤に染まった。救える。出来る。
 思い出したように周囲の悲鳴が聞こえてきた頃には、自分は彼女を抱きしめたまま床に転がっていた。胸の上で彼女が身じろぎして、自分の腕から抜け出そうとしている。力を弱めてやると、身を起こした彼女は慌てて胸の上からおりて、泣きそうな顔でこちらを覗き込んできた。

「リィン! 大丈夫なの、リィン……!」
「だい、じょうぶだ。少し背中が痛いくらいで……」

 悲痛な声に耐えかねて、自分も起き上がって身体を動かしてみる。節々に痛みはあるが、圧倒的に背中が一番痛い。分かっていたことだが、幾つかは痣になっているだろう。声を出す度に身体中が軋むようだった。けれどそんなことよりも、と思う。

「アリサは? どこも怪我してないか?」
「っ私なんか! 私なんかより、あなたの方が」
「俺は平気だよ。昔はこれくらい日常茶飯事だったんだ」

 小さな頃はよく木の上から落ちたりしたから。いつも通り少しおどけて、安心させるように笑って。上手く出来たはずだった。笑い方も自然だったはずだし、何より泣かせてはいけないという本心からの笑顔だったから。だけれどどうしてだか、彼女はさらに泣きそうな顔をするのだった。ごめんなさいと、震える手を目に押し付けて言う。そうじゃない、違うんだ。

「……こういう時は、ありがとうの方が、嬉しいよな」

 アリサも知っているだろうという意味を込めて覗き込む。顔を合わせることに、不思議と抵抗が少なかった。後ろめたさが無い訳じゃない。今でも暗い感情は腹に巣食っているし、危険な目に遭わせてしまった後悔も渦巻いている。そうだとしても。

「……ありがとう、リィン」

 近くでこうして笑ってくれることが嬉しかった。ずっと目を背けていたからかもしれない。遠ざけていたからかもしれない。――彼女の笑顔はこんなに綺麗なものだったかとすら、思った。



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