小さな花の影を踏む



 笑って済ませられるなら、それ以上のことは無いと思っていた。
 わがままを言われても、理不尽を押しつけられようとも、大切なものを手放せと言われたって。相手が家族や仲間なら、なんの躊躇いもなく従えた。あの暖かい家に迎え入れられたその日から、自分は最後のクッキーに手を伸ばすことをやめていたのだから。それで満足だった。いくらそのクッキーが食べたくても、自分が諦めることで誰かが笑えるならそれで。
 満足だった、はずなのに。
 お前は兄でいることにこだわりすぎていると言った彼は、弟として生きていた。なるほどそれなら、見抜かれていてもおかしくはなかったのかもしれない。自分がもう、彼女に対して兄の顔を保っていられないことに。

 沢山の人に背中を押されてどうしようもない遠回りをしながら、俺は彼女が好きだとようやく自覚したんだ。全く、情けない話だけど。






 きっかけが必要だった。今ではあの瞬間が始まりだったのだと、はっきり分かる。
 学院祭を間近に控えた、とある晴れた朝のことだった。
 朝誰より早くに起きて、郵便受けを覗くことが癖になっていた。たまに早朝の鍛錬に向かうラウラと鉢合わせることはあったが、それもせいぜい週に一回ある程度で、大体の場合は朝の時間を一人で過ごすことが多かった。思うに自分はあの、しんとした空気が好きだったのだろう。夏に向けて早くなる夜明けや、暑さをどこかに置いてきたような涼しさとか。日々のうちにいつのまにか夜明けは一番早くなって、それからはまた段々と冬に向けて遅くなっていく。それがこれ以上ないほど確かで、好きだった。生まれた時から本当に変わらなかったものなんて、それくらいしか知らなかったのだ。
 だから彼女がそこいることに本当に驚いた。全くもって、予想外だった。

「アリサ……?」
「あら、リィン。おはよう」

 一階玄関横、郵便受け前の小柄な身体が振り返る。寝起きらしいフラットなトーンで、けれど親しみの滲む声音だった。おはようと返しながら、ふと違和感に気づく。ラウラと会った時に似ている、けれどそれよりずっと強い暖かみが腹の辺りに生まれていた。

「今日は随分とその、早いんだな?」
「ええ、部活の朝練があって。一週間くらい集中して強化練習するみたいなの。そろそろ学院祭の準備で忙しくなるだろうからって」

 そう言って彼女が手元の袋を持ち上げる。それに刺繍された士官学院の文字を読んでやっと、自分が心なしか浮かれていることに気づいた。これから一週間、この時間は彼女に会うということ。静かだった朝に、自分のものでない呼吸が加わるということ。

「あなた……ええと、リィンは相変わらず早いのね?」
「え? あぁ、そうだな。うん」
「ふぅん……」
「…………」
「……ふふ、なんだか初めの頃に戻ったみたいね」

 そう思う。自分も、そう思う。けれどひとつだけ違うことがある。あの時は謝罪しか思いつかなかったし、ただ会話を繋げる為だけに、天気の話題を持ち出したりもした。意図した沈黙が心地よいものなのだと、空を二人で見上げることは世間話のひとつではないのだと知ったのは、ごく最近のことだ。アリサという名前を呼ぶことにも、随分慣れた。

「なぁ、散歩がてら、教会の辺りまでついていってもいいか?」
「え、でもあなた往復することになるじゃない」
「構わない。この時間はさ、朝陽がとても綺麗なんだ」

 きっと自分は朝が好きで――そしてそこに生まれる感動を、ずっと誰かに聞いて欲しかったのだ。
 それが誰でもよかったのかは、わからないけれど。




 彼女はその日に、怪我を負った。
 その話を聞いたのはマキアスからだった。エリオットと共に登校した自分に、言いにくそうに、それでいて淡々とした声音で。部活の朝練中に怪我をした。右のふくらはぎを縦に大きく浅く、一直線に切ったのだという。神経や筋にまでは達しない、引っ掻き傷に近いものだと。軽傷だ。問題ない。心配そうに口を開いては閉じるエリオットに、マキアスはそう言って諭した。

「……原因は」

 そう言った瞬間に彼の眉が寄ったのがわかった。一番聞かれたくない質問だったのは知っていた。知らず知らず声が低くなるのが分かる。

「原因はなんなんだ、マキアス」
「……僕も詳しくは知らない。おそらく、ただの事故だ」

 嘘だと思った。直感に過ぎないけれど、全く疑わなかった。彼は原因を知っている。
 けれど、問い詰めることも出来ないのだった。何か理由があるのだ。自分達には話せない、もしくはこれ以上事実を広められない理由が。それを彼女が望んだのかもしれない、ということも考えられた。だったら自分が踏み込めるのはここまで。ただのクラスメイト、より少し近いかもしれない自分に許されるぎりぎりのラインだった。

「歩くことに支障はないが、何かあれば補助を頼みたいそうだ」
「……そうか」

 頼まれなくても、と思ったのはおそらく自分だけではなかっただろう。訳を知らなくても力を貸すことは、何も自分だけの特権ではないのだから。

 翌日の朝、彼女は郵便受けの前に居なかった。切り取られたような空気は、いつも通りしんとしている。あいかわらず、朝陽は綺麗だった。




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