without notice



「……ワジ君はいつ、気付いたの?」
「昨日の朝だね。起きた時から、何か違う気はしたんだけど」

 音も立てずにグラスをテーブルに置いて、彼はL字ソファの短い方に腰かけた。長い方に座るあたしはただ部屋を茫然と見回していた。支援課の彼の部屋と瓜二つなのだ。どういう原理かは分からないが、あの部屋の家具がここにある代わりに、元々のトリニティにあった部屋の家具がさっぱり無くなっているらしい。綺麗なグラスには無色透明の液体が満ちていた。お酒ではないだろう。

「どうして僕がここにいるのか、アッバスに一から説明して貰って――やっと色々な事柄が存在しないことが分かったよ。過去が作り替えられているらしいことも、さ」

 君達の居場所も調べてもらった。
 少し声のトーンを下げて、彼はそう言った。ただその後は何も引き継がない。不思議に思って視線をやると、彼は薄い笑みでこちらを見返してきた。そっちも話して、という意味だろうか。

「……あたしは昨日の夕方、突然思い出したの。本当にいきなり。この世界は違うって、何でかな、唐突にそう思っちゃった。皆に会わないとって」

 彼の方は見ていられなかった。興味深げな視線が注がれているように感じて気恥ずかしかったのだ。つっかえつっかえになりながら一連のことを話している間の部屋の中は嫌に静かで、ここだけ空間を隔離しているみたいだと思う。
 IBCの辺りまで話すと、それほど長い話ではなかったにも関わらず、緊張感からか急に喉が渇いた。グラスに口をつけて、終始無言だった彼を横目で見やる。――彼はこちらを見ていた。

「……ノエル」
「なっ、なにかな!」

 反射的に目を逸らして力いっぱい答えてしまった事を後悔しながら、必死にグラスを見つめた。今の反応、きっとからかわれる。ゆらゆらと揺れる水面には暗い影しか映っていなかった。
 けれどいつまで待っても笑い声は聞こえない。訝しさに顔を上げようとした所で、横から伸びてきた手がグラスをひっくり返した。絨毯に其れが転がり、残りの水が濃い染みを作るのを見る事は叶わない。――抱きしめられていたのだ。彼に。

「ワ、ジ君?」
「うんごめんね。嫌なら殴っていいよ」

 身体が冷たい。いつ移動したんだろう。グラスの水が溢れてしまった。そんなくだらないことばかりで頭が回らない。こんなに、近かったことなんて無かったから。訳の分からないままとりあえず肩をぽすんと叩くと、耳を擽るような笑い声がやっと聞こえた。
 遅れてやって来た羞恥心が顔を真っ赤に染める。もう一度しっかり叩いてやろうと握った拳は、彼が腕の力を強めてきたことですっかり覇気を無くしてしまった。

「ノエルは、凄いね」

 頭を振る。そんなことない。

「凄いよ。皆に会うために君は行動したんだ。……僕は君が思い出す前から、全員の居場所を知ってたんだよ。どうして君のようにしなかったと思う?」

 それは、だって、他にやることがあったんじゃないのか。口では何と言っていても人一倍色々なことを考えている彼だから。
 夕暮れが迫っていた。この世界での一日目が終わろうとしている。

「……怖かったんだ。信じられる?」

 また熱い塊が喉を詰めるのを感じた。彼の声は平常の時と変わらない。ただいつもより少しだけ平淡な其れが、余計に感情を押し殺しているように思った。

「この記憶は本物なのか、本当におかしいのは世界なのか。――あの日々は全て、僕の頭の中だけで起こっていた事なんじゃないかって。そう思ったら……君達に会って、否定されるのが何より怖くなった」

 彼との再会を思い出す。全身が震えるような寒気を。あの時彼も、同じ目をしていた。どれだけの安心を感じただろう。縋るべきものを見つけた時、人は途端に弱くなる。足を突っ張って虚勢を張っていたのだ。だってなんとなく、世界に一人ぼっちだと思っていたから。

「嬉しくて堪らなかったよ。ノエルが僕の名前を呼んでくれて」
「――あ、あたしも、ねっ」

 吐き気は嗚咽に変わっていた。手が自然に彼の肩を掴み、指が白くなるほどの力で爪を立てる。

「ほんとは、こわかったの。だって、でも、どうしたらいいか分からなかったから」

 動いていれば忘れられた。世界を取り戻すのだと大義名分を背負って行動すれば、少なくとも進んでいる気にはなれる。
 けれど、もう限界だった。見知った人々は他人として自分を見たし、ロイドも――その眼差しから警戒心を消さなかった。自分だけが冷たい光の中に放り出されて、でもその核である記憶が本当だという保証も無くて。休めば立ち上がれないことも分かっていたのに、それでも歩いてはいられなかったから。
 そんな時に、彼は現れた。

「ありがとうワジくん。あたしを見つけて、くれてっ……」

 熱い塊が溶けて喉を焼く。それからはもう何を言ったのかは覚えていない。眩し過ぎる窓から光が消えてもまだ、彼は何も言わなかった。



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