painful temperature




 ――辛い記憶を忘れたい?

 声が聞こえた。聞き覚えのない、けれど毎日聞いてもいるような、奇妙な声。

 ――願いが叶うよ。この世界は素晴らしいから、そんなもの必要ない。ねぇ、新しく生きたい?

 曖昧な問いだ。意味も意図も分からない、悪く言えば都合の良い質問。記憶を捨てた新しい人生の提示。幸せに生きたいか、と問われているようだった。もちろんその問いには是と答えるだろう。けれど。

 ――辛かったもの、全部捨てていいんだよ。

 記憶を忘れる、そのことに関しては、何故かどうしても頷けなかった。






「……ーちゃん、おねーちゃんってば!」
「へっ?」
「どうしたの? ぼーっとして」

 覗き込んできた鮮やかな髪色。自分と同じ色であるはずのそれは、何故か自分のものよりも艶やかで良い匂いがするのだった。五感が今になって蘇る。都会の喧騒、夕暮れ時の焼けるような日差し。柔らかな髪に縁取られた顔が、心配そうに歪んでいる。

「ごめんね。久しぶりにお姉ちゃんと買い物出来るのが嬉しくて、わたし……」
「ち、ちがうよ! 少しぼーっとしてただけだから大丈夫」
「ほんと?」
「ほんとほんと。ほら、少し休もう?」

 中央広場のベンチにフランを促し、隣に買い物袋を置く。腕がだるいと思ってたら、どうりで。あたし、こんなの持ってたんだ。

「……え?」

 その納得に自分自身で驚いてしまう。分かっていたはずじゃないか。今日は久々の休日で、フランと買い物に来て。
 ――本当に?
 警備隊はここ最近忙しかったから。帝国や共和国からの入国手続きに追われていて、書類を触らない時間も、机に座らない日も無いくらいだった。だから久しぶりの息抜きにはしゃいでしまって――
 ――本当に?

「ねぇ、お姉ちゃんやっぱり顔色悪いよ。もう帰ろ? 昨日もすごく忙しかったんでしょ?」
「違う……違うの、あたし、なにか」

 なにかを忘れてる。
 今持っている記憶の全てが映画のように嘘臭い。この一年間の、警備隊で過ごした日々。延々と続くデスクワークも、平和で退屈な生活にも現実味が無いのだ。激しい動機で心臓が飛び出してしまいそうだった。脳の脈動まで分かるような頭痛に、頭を抱えてしまう。霞んでいく視界が忘れてしまった何かを探している。目まぐるしく変わるぼやけた風景の中で、『其れ』は明確な存在感を持って佇んでいた。

 およそこの街には似つかわしくない、寂れた様相の雑居ビル。あれの名前を、役割を、あたしは知っている。


「とくむ、しえんか」


 特務支援課。ロイドさん、エリィさんティオちゃんランディ先輩キーアちゃんセルゲイ課長ツァイトコッペリーシャさんダドリー捜査官ソーニャ司令出向教団帝国共和国列車砲国防軍至宝と、

 ――相変わらず堅いなぁ。ねぇ、ノエル

 涼やかな声が、あたしを呼んでいる。



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